般若経典のエッセンスを語る28

2020年10月25日 | 仏教・宗教

 これは、理屈としては非常にはっきりしているのだが、私たちは空・一如ということを覚っていないので、慈悲ができない。

 人間同士が慈悲の心を持って接することができないから、世の中は乱れ、いろいろなことが起こる。

 そういう場合、一生懸命ボランティアや良心や優しさで問題解決をしようとしても、心の底では「おれとおまえは分かれている」と思っているから、根本的な一体感に基づく「慈悲」にはならない。

 「自分と自分以外のものが分離している」という思いのことを「分別知」といい、分別知の状態では慈悲は行なえないのである。

 それに対して、空・一如ということを少しでも学び、実感し、覚ることによって、少しずつ慈悲に近い心を持つことができるようになる。

 それも、グラデーション的・漸進的成長であって、私たちふつうの人間は、そういうことをまず頭で学び、練習・実行をしながら少しずつ身に付けることで、今までの少し無理のある優しさやボランティア精神から、慈悲の心へと次第に深まっていく。

 究極の理想的モデルとして、慈悲そのものの存在になったら、それを覚った人・仏というのである。

 慈悲の心でなければ、「私がこんなに苦労してやってあげても、あなたの態度はそんなものか」とか「やりがいがない」といったふうになりがちだが、慈悲の心なら、先の譬えのように、手が足の治療をして、足がお礼を言わなくても、腹を立てたり、空しくなったりしない。足がよくなったら、手も「よかったね」で終わりになる。

 そうした見返りを求めない愛という考え方はキリスト教にもあり、ギリシャ語で「アガベー」というが、完全なアガペーの心のあるのは、神と神の子としてのイエス・キリストだけということになっている。

 キリスト教徒は、キリストに倣って努力をするのだが、生まれつきエゴイズムへの傾向・「原罪」があるために、完璧を目指すことは難しいとされている。

 それに対して仏教は、なぜ慈悲がふつうの人間には難しいかを明快に解き明かしている、と筆者は考えている。

 詳しくは筆者がこれまで書いてきた著作、特に唯識のものを参照していただきたいが、ここでもなるべく簡略に繰り返しておこう。

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般若経典のエッセンスを語る27

2020年10月25日 | 仏教・宗教

 智慧と慈悲について重要なのは、ここ、つまり空と一如は同じ事柄を別の言葉・角度で語ったもので、いわば同義語だというところである。

 空を覚るとは、一如を覚るということであり、智慧とは、私と他のもの(者・物)がぜんぶつながっており結局は一体だということを覚ることである。

 それは抽象論にとどまらず、目の前にいるあなたと私は縁起的関係にありかつ最終的には一如なのだということを覚らなければ、覚ったことにはならない。「おれはおれ、おまえはおまえ」と思っている間は覚りではないのである。

 しかし、覚ったらあなたと私がべったりと一体化するかというと、そうではなく、あなたと私の区別はくっきりありながらしかし一体、一体ではあるけれども区別はある、そういう関係になる。

 「一体」という日本語はよくできているといつも思うのだが、一如という言葉を一体と置き換えると、よくわかる。

 私の左手と右手は一体である。でも右手と左手の区別はありありとある。私の手と足は一体なのであるが、でも明らかに区別できる。

 例えば、足がどこかにつまずいてケガをしてしまったとする。すると手が傷口を消毒したり、包帯を巻いたりして助ける。

 その場合、手は足に向かって「(おれがおまえのために)やってやったんだ。(おまえはおれに)少し礼をよこせ」とか「せめて感謝くらいしろ」とか、そんなことは要求しない。

 一体・一つの体だから、一体のどこかが傷んだら体の他の部分がそれを癒していく。

 胃が「お腹がすいた」という信号を出したら、手や足が食べ物を獲得して、歯が噛み砕いて、舌が味わう……ということになる。

 その場合、胃が舌に向かって「おまえだけうまい思いをして、おれは消化の苦労をするだけか」と文句を言ったりはしない。それは一体・一つの体だからである。

 そのように、私と他人との関係がほんとうは一体であるということが、一如そして空ということの意味なのである。

 「空」というと、何か高尚そのものの、しかし抽象的でわけのわからない哲学的概念のように思ってしまいがちだが、私の学んだ限りの大乗仏教では、空とは一如のことであり、それは自分と他者、そして宇宙との一体性のことを言っているのである。

 一如・空であるから、そこから当然、「他人は、他人であって他人ではない。私と一体であり、私の一部だ」ということになり、そうなれば当然、慈悲が生まれるわけである。

 例えば、手とは関係のない足が勝手につまずいてケガしてしまったのならば、手は自分と別ものだと思って「おれとは関係ないだろう。なぜおまえを助けなきゃいけないんだ」という態度になるが、一体ならば、足の痛いのは手にとっても放っておけないことであり、当たり前のこととして助ける行為を行なうだろう。

 そのように、慈悲は、何か努力して他人にいいことをしてあげることと一見似ているが、本質的には別のことである。

 つまり、ボランティア行為や優しい行為といったものと慈悲とは、質が違うと言ってもいいだろう。

 私たちがボランティア行為をするのは、自分が元気でお金があってなど「上の私」がいて、病んでいたり貧しかったりする「下のあなた」がいて、そこで「私があなたにやってあげる」という話である。

 すると、「(私があなたに)やってあげたんだから、(あなたは私に)せめてお礼くらいは言いなさいよ」と報いを期待することになる。

 一方で慈悲は、一体だから自然にやること・やらざるを得ないことである。

 手は当たり前のこととして足のケガの手当てをするし、ケガの手当てをしてもらっても、手は足に礼は言わないし、足はそれで空しくなったり腹を立てたりしない。

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