ここで注目しておくべきことは、ゴータマ・ブッダの十大弟子の中で解空(げくう)第一、空がいちばんわかっていたという須菩提・スブーティに向かってこの言葉を語られていることである。
ほんとうに空を理解する・覚るということは、すべての生きとし生けるものと自分との一体性を理解し覚ることでもあって、衆生と自分との一体性を覚らない空の覚り方などほんとうはないのだ、と。
つまり、すべての生きとし生けるものを離れ捨てて、自分だけが覚って安らかな心境になることを求めるのは、ほんとうに空を理解する・覚ることにはならないという、小乗への批判の意味が込められている。
すべてのものが空であるということ、すなわち一如である・一体であるということは、すべてのものと一体なのであるから、当然すべての生きとし生けるものとも一体である。
そうなると、すべての人の喜びは私の喜び、すべての人の苦しみは私の苦しみということになるはずなのである。
今、「自分のことで精一杯」とすぐに言う人が増えているようだし、それはそれで個々の事情でやむをえない場合もあるだろうが、自分のためだけに生きるというのでは人間が小さい・幼いと言うほかない。
衆生への慈悲行を実践するような大きな人間になろう・なれるというのが、般若経典-大乗仏教の私たちへのメッセージのもっともエッセンスである。
きわめて端的にエッセンスだけを言ってしまえば、ある意味、それで終わりだとも言える。しかし、詳しく述べると、『大般若経』六百巻になる。それがとても面白い。
クラシック音楽に、「テーマとバリエーション(主題と変奏)」という形式がある。
比較的簡単な何小節かのテーマが、例えばモーツァルトとかベートーベン、フォーレといった大作曲家にかかると名曲になる。
例えば、モーツァルトに『きらきら星変奏曲』というピアノの名曲がある。
最初のところはまさに童謡の『きらきら星』のメロディーで、「こんな単純なメロディーでどうするつもりだろう」と感じられるところから始まり、その一つのテーマがずっと展開していくのだが、あんなに単純なメロディーがこれほど豊かな音楽になるのかとびっくりするような名曲で、だんだん「おお、確かにこれはモーツァルトだ。名曲だ」となる。
それに似て、主題だけなら「智慧と慈悲」で終わり、しかしその変奏を六百巻読んでも飽きない、ということになってしまうのである。