菩薩の三十一の誓願
菩薩が慈悲の心を実習・実修する場合、「具体的には、こういうことを実行しよう」というのが誓願である。
イントロダクションが長くなったが、ようやくここから第一章で「般若経のエッセンスのエッセンス」だと予告した「菩薩の三十一の誓願」を順を追って見ていきたいと思う。
これは『大般若経』「初分願行品第五十」にあるもので、他に一願だけ少ない三十願があげられている個所もある(各願についての見出しは大東出版社版『国訳一切経』の中の『大般若経』の脚注による)。
人間は心が無明に覆われているが、心の本質は清浄であり、無明をいわば拭い取ることによって、智慧が現われる、と仏教は説く。そして。無明を拭い取る方法として、仏陀から部派仏教までは主に「八正道」を説き、大乗仏教は「六波羅蜜」を説く。
「波羅蜜」は「波羅蜜多」の略で、波羅蜜多はサンスクリット語の「パーラミター」の音写である。「パーラ・完成」+「ミター・方法」と「パーラム・彼岸へ」+「イッター・行く」という二つの語源解釈があるが、どちらにしても「覚りに向かう方法」という意味になる。
八正道と六波羅蜜の内容はかなり重なっているが、ごくシンプルに言えば、八正道になくて六波羅蜜に加えられているのは「布施」である。
かつて筆者は両者を比較してみて、自分の覚りにとどまらず、他者への慈悲が強調された大乗仏教の修行法の最初に「布施・施し」が挙げられているのは、なるほどと納得させられたものである。
第一願は「布施成就衣食資生充足(ふせじょうじゅえじきししょうじゅうそく)の願」で、「衆生・有情への布施を完全なものにし衣食など生きるための必要なものをすべて充足したい」という願である。
菩薩の願は、単なる精神論から始まらない。まず、生きるために必要なものはすべて充たしてあげたいということから始まる。
筆者の現代語訳で見ていこう。
スブーティよ、菩薩大士が布施波羅蜜多を修行していて、もろもろの有情が飢え渇きに迫られ、衣服が破れ、寝具も乏しいのを見たならば、スブーティよ、この菩薩大士はそのことをよく観察してからこう考える。
「私はどうすればこうした諸々の有情を救いとって貪欲を離れ欠乏のない状態にしてやれるだろうか」と。
こう考えた後で、次のような願をなして言う。
「私は渾身の努力(精勤)をし身命を顧みず布施波羅蜜多を修行して、有情を成熟させ仏の国土を美しく創りあげ速やかに完成させて、一刻も早くこの上なく正しい覚りを実証し、我が仏国土の中にはこうした生きるために必要なものが欠乏しているもろもろの有情の類がおらず、四大王衆天、三十三天、夜摩天、覩史多天、楽変化天、他化自在天では種々のすばらしい生活の糧が受けられているように、我が仏国土中の有情もまたそのように種々のすばらしい生活の糧が受けられるようにしよう」と。
スブーティよ、この菩薩大士は、このような布施波羅蜜多によって速やかに完成することができ、この上なく正しい覚りに〔すぐ隣りといってもいいところまで〕かぎりなく接近(隣近・りんごん)するのである。
終わりのところからいくと、「このような布施をしたなら、覚りはもうすぐそこだ」という。
究極の覚りそしてこの世からの解脱へぎりぎりのところまで接近しながら、向こうの世界・彼岸に行ってしまわず、あえてこの世にとどまるのが菩薩である。漢訳原文で言うと「隣近」するのである。
あるいは、観音菩薩がそうであると言われるように、実は行ってからもう一度戻ってくるのだと言ってもいい。
ともかく、菩薩は向こうへ行かない、または行ったきりにならないのである。
仏は、すべてが一体・空だと覚り切ることになっている。
すると、救いということが成り立つための三つの要素である救うもの―救われるもの―救いの行為の違い・分離もまったくなくなるわけで、いわば話はそこで終わりになり、救いという行為は成り立たなくなる。
ところが菩薩は、究極のところは救うも救わないもないということがわかっているのだが、現象としてはやはり救う。
覚りまでもう一歩というところにあえてとどまり、私と衆生・有情は違うという立場に立って、救うという行為をやり続ける。
これが大乗仏教のすばらしいところだと思う。覚って、解脱して、向こうに行って、それで終わりではなくて、覚りに限りなく近いところまで行き、しかしきわめて微妙なところでとどまって衆生救済の実践をし続けるのである。