若い人からしばしば聞かれる典型的な質問の1つに、「思想・宗教、思想家・宗教家、その集団が本物か偽物か、どう見分けてきたのですか?」というものがあります。
最近もまた複数の若い人から聞かれたので、ここでブログ読者にもシェアすることにして、いくつかのポイントをお答えしておきたいと思います(本格的に論じるにはたぶん本一冊分のボリュームが必要だと思われますが)。
まず、おおまかに言うと、自分の直感と理性の両方をフルに使って判断するよう努力してきた、ということです。
「なぜかはよくわからないが、何となく怪しい」という直感は大事にする必要があると思っています。
しかし、それだけでは主観に振り回されてしまう危険がありますから、「なぜ、どこが怪しいと思うのか」としっかり理性を働かせて洞察することも必要です。
私の経験では、「怪しい」と感じられるものには、いくつかの特徴があります。
①まず、その教え、思想家ないし教祖、その集団が自分(たち)を自己絶対化していることです。
これは宗教、非宗教を問わず、いわゆる原理主義の特徴です。実例としては、原理主義的キリスト教、原理主義的イスラム、原理主義的マルキシズムから、原理主義的新宗教、原理主義的新々宗教まで多様にあげられます。
独断的な思いこみ・信念・信仰と違って、理性はものごとに対してきわめて柔軟な態度を取ります。冷静・客観的な観察を元にして仮説を立て、さらなる観察や実験や理論的推測によってその確かさを検証し、問題があれば修正をする、という態度です。
それに対して自己絶対化した独断的な教えは硬直していて、初めから決めつけられた結論があり、理性的な疑いや検証や修正を許容しません。
しかし、この世界そして宇宙にはあまりにも膨大な情報があるのですから、不完全で限定された人間の知恵がそのすべてを知った上で最終的・絶対的な結論に到達できるとは思えません。
不完全な人間には、不完全な情報の範囲で不完全な理性をできるだけ働かせながら、「当面の確からしい――将来修正の可能性もある――結論」に到ることができるだけではないか、と私は考えています。
そういう意味で、リーダー、メンバー、グループに柔軟さが感じられず、自己絶対化、独断、決めつけといった臭いがしたら、それは怪しいと思っていいでしょう。
②続いて、それを学んだり、そのグループに所属するために常識外れのおカネを請求されるかどうか、ということです。
いろいろな趣味や教養のために一定の常識的な範囲の謝礼が必要なことは当然ですが、常識外れの献金や会費を請求するようでしたら、建前がどんなに立派でも本音は営利目的ではないか、そういうグループは怪しいのではないかと疑っていいでしょう。
ただ、最初はタダまたは格安で、だんだん高くなるというシステムになっている場合がしばしばあるので、要注意です。
③さらに、しつこくて強引な勧誘で入会させようとしたり、退会しようとすると強制的に引きとめるようなグループは怪しいと思っていいでしょう。
どこまで個々人の信教の自由、思想の自由、判断・決断の自由を重んじるかということは、本物か偽物かの重要な違いだと思われます。
さらに加えて言えば、リーダー、メンバー、グループが、疑問や反論に対して柔軟であり、妥当な料金しか請求せず、入退会がゆるやかであれば、それは本物か偽物か以前に、あまり危険はない、と言ってまちがいないでしょう。
ともかく、どんなに魅力的に見えたり力があるように見えても、危険な思想や集団は選ばないことを、私は若い人に勧めています。
なるほど、柔軟性があるかどうかは大きなポイントとなりそうですね。
人間は絶対の真実をつかむことはできないという事実は認識している人間とそうでない人間とでは全くといってよいほどの違いが出てくるように思います。
しかし、これ学校で教えてくれればよかったのにとも思います。
そうすれば、一つの考え方として、いろんな考え方をもっともっと学べたのに、と
宗教は全部悪、体系だった理論は危険、というように教わってきたため、深入りしないようにしてしまうと、正しいかどうかを検討する以前に、危険と判断してしまいお互いの理解が深まりません。
先日、友達に言われたことばを引用します。
「宗教にかかわりたくはないが、宗教とか深く学んだ人よりも、全く学んでもいないのに危険といっている人の方が危ないのでは?」
僕もその通りであるとおもいました。
大学へ入るまでは、宗教=危ないもの
でしたが、学んでみると、学んでいる人は、意外と、宗教はすべてではない。どころか、役に立つエッセンスはあるから使う。しかし、そのまま「神話」という形では信じていない人もそれなりにいることを知りました。
ものごとを疑う場合、先入見・思いこみで知りもしないのに「怪しい」と疑うという態度と、内容を知っていないことを自覚した上で、まだ知らないからいいとも悪いとも断定できないと保留するという意味で疑うという態度は、まるで違うものです。
後者の態度は近代思想の祖の一人であるデカルトの用語でいうと「方法的懐疑」といいます。
本当に確かなものに到るまでは、常識的決め付けを鵜呑みにしない、疑い続ける、という態度です。
そういう理性的な疑い方を、早い時期に学校で近代の標準として教えておくといいですね。
学校で、いろいろな知識だけでなく、知識を取り扱う理性の使い方を教えてもらえるといいのですが、私も高校までではまったく教わりませんでした。
私の場合、幸い大学で、そういうことを教えてくださる先生に出会ったので、比較的早めに身につけることができたように思いますが、私の教えた大学生たちの報告によれば、今の高校はもちろん大学でも、理性の使い方、思想形成の方法などは教えられていないようですね。
なんとか改善してほしいものですが。