随煩悩は、まだ6種類もあります。
しかし、次の3種類は、それほど詳しく説明する必要はないと思いますので、まとめてお話しておきます。
とりあえず「不誠実」と訳した「不信(ふしん)」は、善の心である「信」のちょうど反対です。
これは、仏教という宗教団体に入信しないとか、ゴータマ・ブッダや特定の宗祖などを崇拝しないとか、仏教の教義を信奉しないということではありません。
そうではなく、マナ識にコントロールされているため、どうしても自分を中心にし、自分の都合や偏見でものを見、事実・真実を素直に認めようとはせず、それに真剣に直面しないという意味で不真面目で、直面しないから当然誠実に実行することもない、という心のことです。
もちろんその結果として、「縁起」という事実を認めず、自分が自分だけで生きているような気になり、「縁起」の教えという意味での仏教を聞いても信じないということも起こるわけですが。
(そういう場合、大事なのはまず事実であって、教えは事実を指し示しているかぎりにおいて信じられるべきです。)
事実に反する考え方や生き方をすると、当然ながら、いろいろ事実からのしっぺ返しがあります。
何よりも人生を真直ぐに気持ちよく生きていくことができませんから、不信はもちろん煩悩です。
さらに、自分だけが可愛いと、当然、なるべく自分に楽をさせたくなります。
自分が楽をすることで、人に苦労や迷惑をかけていても、「知っちゃあいない、関係ない」と思ってしまうのです。
本当は関係・つながりがあり、だから責任があるにもかかわらず、勝手にサボるのです。
それが怠惰の心、「懈怠(けだい)」です。
しかも、今の自分を実体視していて、自分も無常であり変化せざるを得ないことが計算に入っていませんから、今の自分に楽をさせることで、未来の自分にツケが回ってくることも計算に入っていないのです。
繰り返しですが、自我・私もまた無常で変化するもので、いい言動・カルマはいい変化をもたらし、悪い言動・カルマは悪い変化をもたらすのです。
周りに迷惑をかけ、自分にもやがて悪い結果をもたらすのですから、懈怠も煩悩というほかありませんね。
そして、だから、特別覚ろうとはしていなくても、賢く中長期の自分の幸せを考えただけでも勤勉・精進は身のためだということがわかります。
次の好き勝手にする心、「放逸(ほういつ)」も基本的には同じことです。
目先の自分の好き勝手にすることは、もちろんまわりの人に迷惑をかけることが多く、やがて関わりの中にある自分に悪い結果をもたらします。
好き勝手にしていると当座はいい気分かもしれませんが、やがて人から嫌われ、遠ざけられ、黙殺されるようになり、さらには排除され、ひどいと抹殺さえされかねません。
だから、放逸は煩悩なのです。
これは、自分と人との好きにすることをうまく調和させて、お互いの好きにすることがお互いのためになるという生き方をするのとはまるで違うことです。
自分だけの好き勝手ではなく、お互いの、みんなの好きにすることと自分の好きにすることをみごとに調和させて生きられるようになることを、心理学では「自己実現」といいます。
仏教でいう「自利利他円満」とほとんど同じことですね。
(自分(だけ)の好きに生きること、いわゆる「ゴーイング・マイ・ウェイ」が「自己実現」だと誤解している人があまりにも多いので、唯識とは別に今「自己実現の心理学」という講座を行なっています。)
さて、以上、不誠実、怠惰、好き勝手な心が、マナ識に潜む4つの根本煩悩から発生していることはもう十分おわかりになると思います。
自分の心を見つめて、しっかり自己診断をし、それから治療に取りかかりましょう。
一歩ずつ、インフォームド・コンセントは続いていきます。
辛抱強くお付き合いください。
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みんな、反省しすぎないで気をつけましょ。