誠実さがすべての根本である:十七条憲法第九条

2007年02月27日 | 歴史教育


 「信」は、儒教では5つの基本的徳目、仁・義・礼・智・信の1つです。

 仏教では、心の善の働きの第一にあげられています。

 第九条の「信」は、まず儒教的な意味で語られています。

 群臣・官僚・リーダー同士での誠実さに基づく信頼関係という意味です。

 自ら省みて恥じるところがなく、他に照らしても恥じるところがなく、そして天の声を聴いても間違いないと思われる態度のことを「信・誠実」といいます。

 太子は、あらゆる事にそういう信の態度をもって臨むように、といわれます。


 九に曰く、信はこれ義の本なり。事ごとに信あるべし。それ善悪成敗はかならず信にあり。群臣ともに信あるときは、何事か成らざらん。群臣信なきときは、万事ことごとくに敗れん。

 第九条 誠実さは正しい道の根本である。何事にも誠実であるべきである。善も悪も、成功も失敗も、かならず誠実さのあるなしによる。官吏たちがみな誠実であれば、どんなことでも成し遂げられないことはない。官吏たちに誠実さがなければ、万事ことごとく失敗するであろう。


 いうまでもなく、「隠れてやってバレなければ平気だ。隠れてうまくやったものの勝ちだ」という考え方は、信の真っ逆さまです。

 誠実さがなければ、ついそう考えて悪に走る、というのは当たり前のことです。

 しかし、太子は誠実さは善悪だけではなく、事の成否をも決めるのだ、といっておられます。

 誠実でなくても短期間なら人をだまし世をあざむいてうまくやる、つまり個人的に成功することはできます。

 しかし、人も世も中長期だまし通せるほど甘くはないのではないでしょうか。

 誠実でない人は、結局人との持続可能な信頼関係を形成できません。

 他者の持続的な協力なしには、大きな事は成功しません。

 他者の持続可能な協力を得るには、持続可能な信頼関係を確立しなければなりません。

 まして「和の国・日本」の建設というきわめて困難な大事には、リーダー間の深い信頼関係が必須です。

 そのためには、各人に深い誠実の心が必要なのです。

 信=誠実と信頼関係――実はこれは人間同士だけではなく、人間を超えた大いなる何ものか(神仏・天)との関係にも言えることで、仏教的な意味も含まれていると思います――があれば、「何事か成らざらん」、どんな困難なプロジェクトでもきっと成功する。信がなければ、必ず失敗する。

 この「何事か成らざらん」という言葉は、第一条にあった言葉の繰り返しで、つまり十七条のちょうど真ん中・核心にあたる部分で、もう一度強調されているのだ、と理解していいでしょう。

 「和の心、信の心をもって当たれば、どんな困難なことも実現可能である」というのが太子の信念であり、千四百年を経た今でも響いている日本国民へのメッセージなのではないでしょうか。

 そのメッセージを聴き取れるかどうかに日本の将来がかかっている、と私には思えてなりません。



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