昨日、国訳一切経の『大般若経』全6巻が届いて、とても喜んでいます。
時々、古本屋のサイトで探していて、数日前に比較的安いのが見つかり、「この際、思い切って買おう」と決めてから、ふと、「もしかしたらもっと安いのが……」と、インターネット・オークションで探すと、さらに格安のがあったのです。
それで、落札して連絡をしたら、持ち主の方が私を『唯識の心理学』の著者と知って、「有効に使っていただければそれでよろしいです」と、大幅に値引きしてオークションの実費だけで頒けて下さいました。
いったんは遠慮したのですが、結局、お言葉に甘えさせていただきました。
不思議なタイミング-ご縁にとても感謝しています。
それで、どんどん読みたいと思ったのですが、早く片づけたいと思っていた帳簿の整理が、間に他の仕事も入ってなかなか終わらず、まだ少しだけ残っていました。
今日になって、ようやく終わりました。
明日、青色申告会に行って指導を受けて提出する予定です。たぶんオーケーでしょう。
なんともいえずほっとしたところです。
少し慣れたとはいえ、何年やってもその度にストレスなものですから。
それから、午後、散歩から帰ってきて、ここのところ読んでいた第6巻の最後の部分(元の巻数でいうと592~600巻)を読み終えました。
この部分は、『善勇猛般若経』(『大乗仏典①般若部経典』中公文庫所収)に当たり、現代語訳で読んでみて、非常に深い内容があってしかも比較的コンパクトなので、まずここから読んでみようと思ったわけです。
漢文(書き下し文)の言葉のもっている格調・熏習力はやはりすばらしい、と感じています。
例えば最初のところで、善勇猛菩薩が「般若波羅蜜多とは何か」と問うと、釈尊はこう答えています。
何をか般若波羅蜜多と謂うや、とは汝等当(まさ)に知るべし、実に少法(しょうぼう)も般若波羅蜜多と名づくべき無しと。甚深(じんじん)般若波羅蜜多は一切の名言(みょうごん)の道を超過せるが故に。
…般若とは謂ゆる仮施設(けせせつ)なり。仮施設に由りて説いて般若と為す。
何を般若波羅蜜多(智慧の完成)というかといえば、おまえたちはまさにこう知るべきである、実にほんのわずかも般若波羅蜜多と名づけるようなものはない、と。はなはだ深い般若波羅蜜多は一切の言語表現を超えているからである。
…智慧というのはいわゆる仮に設けた言い方である。仮に設けた言い方で、〔あえて〕智慧と説くのである。
覚りの智慧については、どんなに語っても結局語ることはできません。
覚りたければ、最後は黙って坐るしかないのです。
しかし、そういってしまうと、人に伝えることはできませんから、禅定その他の波羅蜜多の実践に誘うために、あくまでも仮に言葉にするわけです。
そして、いったん言葉にし始めたら、『大般若経』600巻にもなってしまうのです。
国訳一切経版は、途中の繰り返し・重複的な部分を省略していて600巻全部ではないのですが、それでも主要なところはすべて入っています。
ともかく、根気が続いたら、この6冊を読み終えて――あるいは読みながら並行して――省略された部分にも原漢文で挑戦しようか、という気になっています。
ある意味では退屈してうんざりするほど繰り返しが多く長い長いお経なのですが、なぜか不思議な魅力を感じています。
玄奘三蔵が、一言一句省略せず全部訳そうとした気持ちが少しわかるような気がします。
たぶん、過去のいつでもなく、未来のいつでもなく、今しかそういう気にはならないというふうな、人生の時機なのかもしれません。
ともかく、一千数百年も前に伝わり今も伝承されている仏典は、きわめて興味尽きない私たちの精神的遺産です。
この精神的遺産を伝えてくれるこの6冊の本は、明日、還暦を迎える自分へのプレゼントにするつもりです。
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先生と話していると「本当に還暦?」と思ってしまいます。
今年も気持ち一つで、学ばせていただきたく思います。
深刻会……ではなく、申告会お疲れ様です。
週末、ご家族での親密会を満喫なさってください。
より素敵なとしになりますように。
お祝いの言葉をいただき、有難うございました。
還暦になりましたが、これまでと変わらず学びを続けていきたいと思っています。
ぜひ、これからもおつきあいください。
>タカハシさん
経典をいろいろお読みになっておられるのですね。
仏教の経典は、読めば読むほど、ほんとうにおもしろいですね。
膨大な量があって、一生かかっても読み切れそうもないので、いつまでも楽しみがなくならなくていいというか、ちょっとくやしいというか……
できるだけ学んでいきましょう。