般若経典のエッセンスを語る25

2020年10月23日 | 仏教・宗教

 歴史的なブッダの言葉に近いとされる『阿含経』では、ブッダは、そうした実体ではないということを主に「無我」という言葉で表現している。「空」という言葉もまったく使っていないわけではないが、あまり多くない。

 「無我」と「空」はほとんど同義語であり、「無我だから空である」という、まるで同義語反復のような言葉もある。

 では、なぜ大乗仏教・般若経典では「無我」よりも「空」という言葉を強調するようになったのだろうか。

 その理由について、筆者の知るかぎり般若経典そのものには語られていない。したがって、以下は筆者の推測・推論である。

 大乗仏教の修行者・菩薩たちは、瞑想と思索を深めた結果、「すべてが縁起であり、すべてがつながっているのならば、ぜんぶ一つにつながっているというのがほんとうのありのままの姿である」「すべては一体である」ことに思い至り、それを「一如」という言葉で表現したのだと思われる。

 そういう定型句はないようだが、「縁起だから一如である」という言い方もできるだろう。

 第一章で引用・紹介したとおり、『大般若経』「初分仏母品第四十一」に「あらゆる如来応正等覚の真如、あるいはあらゆる有情の真如、あるいはあらゆる存在の真如は、二つでなく別でなく、これは一つの真如なのである」とあった。

 無我という用語は、「実体がない」ということだけを表現していて、この一如性が表現しきれていない。それからこれまで話してきたようないろいろ言葉がある。

 そこで、大乗仏教の修行者たちは、こういう意味合いをぜんぶ一言に凝縮して「空」という言葉で表現しようと考えたのではないか、というのが私の推測である。

 確かにそういうことは経典には書いてない。しかし、すでにこの「無我」という原始仏教のコンセプトで空の内容はほぼ語られているにもかかわらず、なぜ大乗仏教の人たちは「空」という言葉を強調したのだろうか。

 それは、「すべてのありのままの姿は一体である」ということをさらに強調して表現し、そしてこれらの言葉を一言に込めるのに、「空」という言葉を使ったのだと解釈するとすんなり理解できるのではないだろうか。

 「すべてのものが実体ではない」というと何か頼りないような気がするが、すべてがつながりあっている、つながりあって一体である、宇宙はぜんぶ一体であるというところまで行くとポジティヴになる。

 特に「無常」や「無我」と言うだけだと、とてもネガティヴに捉えられがちだが、「一如」というところまで行くと非常にポジティヴに捉えられる。

 ポジティヴに捉えて、しかしそれがまたいつの間にか実体だと誤解されないためにあえて「空」という言葉を使ったのだと考えると、なぜ空という言葉が大乗仏教で強調されたか、そしてそこにどういう意味があるのか、理論的にはほぼこれで説明できる、と私は考えている。

 ただあくまでも筆者の知識の範囲での解釈なので、もしより説得力のある解釈が他にあるのをご存じであれば、ぜひご教示いただけると幸いである。


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