般若経典のエッセンスを語る19

2020年10月16日 | 仏教・宗教

 では、なぜ空を洞察することが「いかなる有情も見捨てるわけにいかない」という誓願につながるのだろうか。

 すべてが空ならば、菩薩も有情も空なのだから、見捨てるのも見捨てないのも空だから、どちらでもいいのではないだろうか。

 どちらでもいいことをしていないで、もう輪廻の世界から解脱してしまったほうがいいのではないだろうか。

 なぜ、あえてこの世にとどまって、どちらでもいいことをしなければならないと思うのだろうか。

 かつて大乗仏教・空について学び始めた頃、筆者もそういう深い疑問があった。

 実際、もっともよく知られていてしかも短いため、ほとんどの初心者が最初に読む般若経典である『般若心経』には「慈悲」という言葉はまったく出てこない。

 次に比較的知られていて、さほど長くない『金剛般若経』にも、布施は語られても「慈悲」という言葉は使われていない。それどころか、「空」という言葉さえも使っていない。

 そのため、解説なしに『金剛般若経』の本を読むだけでは、なぜ空・智慧と慈悲が結びつくのかはわからないだろう(その点をわかるように解説するために筆者は『『金剛般若経』全講義』〔大法輪閣〕を書いている)。

 しかし、ああでもないこうでもないといろいろな文献を読み漁っていくうちに、ようやく空と如・真如・一如とは同じ事柄を示しているいわば同義語なのだとわかった時、その疑問はみごとに氷解したことを覚えている。

 ただ筆者が学んだ文献には、経典のどこにそのことが書いてあるのか出典は明記されていなかったと記憶している。

 実のところ、筆者が般若経典に深入りし、とうとう『大般若経』六百巻まで読むに到ったのは、そのことがどこに書いてあるかを見つけたいというのが最初の動機だった。

 そして、かなり長い『摩訶般若波羅蜜経』の最後の最後のほう、全体で九十品(章)の「法尚品第八十九」でようやく次の句に出会い、空と一如が同義語であることを確認したのである。

 すべての存在はすなわちブッダであり、空はすなわちブッダであり、宇宙の本性がすなわちブッダなのであり、すべての存在を離れてブッダというものはなく、すべてのブッダのあるがままとすべての存在のあるがままはあるがままに一体(一如)であって分離しておらず、このあるがまま(如)は永遠に一であって、二でも三でもないからである。

 諸法如は即ち是れ仏なり。空は即ち是れ仏なり。虚空性は即ち是れ仏なり。是の諸法を離れて更に仏無し。諸仏如と諸法如と一如にして無分別なり。是の如は常に一にして二無く三無きが故に。

 つまり、やや単純化して表現すると、すべての存在=仏=空=宇宙=一如ということである。

 さらに『大般若経』を見ていくと、例えば「初分仏母品第四十一」に次のようにあった(現代語訳のみ)。

 ……あるいはあらゆる如来応正等覚の真如、あるいはあらゆる有情の真如、あるいはあらゆる存在の真如は、二つでなく別でなく、これは一つの真如なのである。

 「如来応正等覚」とは仏のことで、つまり「仏と衆生(有情)とその他すべての存在のあるがまま(如)は一体・一如であり、それが真のあるがまま(如)である」とはっきりと書かれているのである。

 生きとし生けるもの・衆生だけでなく、石ころや砂や山などふつうには生きていないと思われるものも宇宙の諸存在である。これらがすべて一体だということ、それは空と同じことなのだと、般若経典に何カ所もちゃんと書いてあったのである。

 繰り返すと、般若経典においては、まちがいなく「空」と「一如」はいわば同義語なのである。

 続いて、有情が空なのだとしたら、なぜわざわざ菩薩大士は修行をして有情を救おうとするのか、明快に語っている個所も発見した。以下の『大般若経』「初分不可動品第七十之一」の言葉である。

  この時、スブーティ長老はブッダにこう申し上げた、「世尊よ、もしもろもろの有情や有情の作り出すことがみな結局のところ把握できないものだとしたら、もろもろの菩薩大士は誰のために般若波羅蜜多を修行するのでしょうか」と。

 空がもっともわかっているはずのスブーティ長老が、わかっていないかのような質問をしているが、それは同席しているまだわかっていない修行者たちに代わって質問しているのであり、それに対してブッダはこう告げられた。

 もろもろの菩薩大士は真実の究極のあり方をよりどころとするからこそ智慧の実践を行なうのだ。

 スブーティよ、もし有情の究極のあり方と真実の究極のあり方が異なっているならば、もろもろの菩薩大士は智慧の実践を行なうことはないだろう。有情の究極のあり方は真実の究極のあり方に異ならないからこそ菩薩大士はもろもろの有情のために智慧の実践を行なうのである。……スブーティよ、有情の究極のあり方と真実の究極のあり方とは二つでなく二つに分かれてはいないのだ。

 ここでとりあえず「宇宙」という言葉を使っておくと、私も他のもの(者・物)も、究極のところすべて宇宙であるから、私の究極と宇宙の究極は当然一体である。

 他の生きとし生けるものの究極はもちろん宇宙の究極であり、私の究極は宇宙の究極であり、すべて一体だから、したがって私を幸せにするということとすべての生きとし生けるものを幸せにすることは、二つにはならない。本来は一つのことだという。

 『摩訶般若波羅蜜経』にも『大般若経』にも、空とはすべてのものの一体性・一如と同じことだと述べている個所がこの他かなりあるが、重複するのでこれだけにしておこう。

 そのこと、つまり空・一如を菩薩大士は覚ろうとしている・覚っているのだから、自分だけのために覚りを求めるなどということはできないし、やらない。

 「菩薩大士はもろもろの有情のために智慧の実践を行なう」、自らを含めすべての人を幸せにするためにこそ修行し覚るのである。

 それは、究極のところ私も宇宙の一部であり、他者も宇宙の一部であり、私と他者は区別はできるけれども、決して分離しておらず、つながっていて(縁起)、結局は一つなのであり(一如)、そのことを覚るのが智慧なのだから、深い本当の智慧は当然ながら慈悲を生み出すのである。

 


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