日本文化と『大般若経』
日本には七世紀、天武天皇の時代にすでに『般若心経』『金剛般若経』『仁王般若経』などの般若経典が入っている。
なかでも『大般若経』は、それまでインドで書かれた膨大な般若経典群のほとんどすべての原文を玄奘三蔵が持ち帰り、最晩年に四年近くかけて訳したもので、六六三年に訳し終えたという記録が残っている。
六六三年に訳し終えられた『大般若経』は、おそらく六六五年には日本に到来している。藤原鎌足の長男である留学僧・定恵が、玄奘三蔵のもとで学び帰国した際、持ち帰ったのではないだろうか。
定恵は、主に唯識学を学んだのだが、もちろん中国の先進文明であった仏教全体を学び取ることも留学僧としての務めだったから、当時入手可能だった経典はすべて持ち帰ってきたのではないかと思われる。
ただ、当時はすべて手書きで写されるので、その段階で六百巻もの写本がすべて出来ていたかという問題があり、もっと後の遣唐使で帰国した人が持ち帰ってきたのかもしれない。
いずれにせよ、遅くとも七世紀の終わり頃には確実に日本に入ってきていたようだ。そして、いうまでもなく以後非常に重んじられてきた。
ただし、古代日本における仏教の受容の仕方は主として呪術的なものである。
仏教を含むほとんどすべての宗教には、さまざまな呪文を唱えたり儀式を行なうことで、何か大きな霊的な力を持ったものに影響を与え、お蔭を被ったり祟りを鎮めたりできるという考え方があり、宗教学では「呪術的宗教」と呼ばれる。
当時、日本人の意識の平均水準はまだ全面的に呪術的な宗教の時代にあり、仏教も従来の呪術的宗教よりもっとパワーのあるものと期待されて取り入れられたと思われる。
その場合、三つの面があった。一つは「鎮護国家」すなわち国を守る呪術、もう一つは個人一人ひとりの災いを祓い幸福や癒しなどをもたらす「招福攘災」の呪術という面、さらには「病気平癒」の呪術である。いずれにせよ、仏教はまず呪術として入ってきたものと考えてまちがいないだろう。
加えてすでに述べたように、仏教には「輪廻」という神話的な世界観がある。世界には生命の六つの形態があって「六道」といい、さらに輪廻を超えた世界が四つあり、合わせて「十界」という。
その十界・六道という神話的な世界観をベースとして、仏教をさまざまなかたちで信じ儀式をすることで、今生でも来世でもご利益を得ることができる。特に死後、人間界でもよりよいところに生まれ変われたり、さらに天界に生まれ変われる、あるいは極楽に往生できるという。そうした神話をベースにした宗教のあり方を「神話的宗教」と呼ぶ。
かつて日本人の心を支え救ってきたのは、呪術的・神話的な宗教としての仏教だった。
そうした中で、『大般若経』は、大変なボリュームがあり、そのためもあって大変な呪術的パワーがあると信じられ、「護国の経典」つまり国を守る経典の一つと位置付けられていた。ちなみに他の護国の経典とされてきたものには、『法華経』、『仁王般若経』、『金光明最勝王経』があげられる。
天平時代、七四一年、聖武天皇は、仏教を全国津々浦々に伝え日本を仏教精神を基礎としたすばらしい国にしたいという願いをもって、各国に国分寺・国分尼寺――国分寺は男の僧の、国分尼寺は尼僧の寺――を建てさせ、寺ごとに釈迦像を安置し『大般若経』を備えるよう詔を下している。
それは、七四三年の、全国総国分寺ともいうべき東大寺、正式には「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」の建立と、大仏、正式には「盧舎那仏(るしゃなぶつ)」の造立の詔につながる施策であった。
そのことはすなわち、聖武天皇にとって、『大般若経』は建前として日本人全体が共有すべき精神の支柱だったということを意味していると解釈していいだろう。
それは、天皇自身がその内容をどのくらい理解していたか、ただ呪術・神話的に信奉していただけかということと関わりなく言えることだろう(筆者は相当程度理解していたと考える)。
そして先取りして言えば、筆者自身読んでみて驚いたのだが、『大般若経』の中身は、今日でも日本人全体、そして大げさに聞こえるかもしれないが人類全体の共有すべき・できるだけの時代を超えた普遍性をもったものだと思えるのである。
以下は、『大般若経』など般若経典の内容を紹介し多くの方と共有するための試みである。
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