般若経典のエッセンスを語る6

2020年10月02日 | 仏教・宗教

 ところで、唐では玄奘三蔵の訳経の完成記念の会を起源として「大般若会(だいはんにゃえ)」という儀式が行われるようになり、日本でも七〇三(大宝三)年、文武天皇の命により宮中や四大寺で転読がなされて以来、今日まで多くの寺院で特に正月などに行なわれている。

 六百巻もあり唱えるには長すぎるので、省略して経典をパラパラと開いて閉じて読んだことにするのを「転読(てんどく)」という。転読を行なうお寺は今でもたくさんあるので、ご覧になった読者もあるかもしれない。

 

興福寺で大般若経転読会 空中に広げる600巻

 

 それには経典の風入れの意味もあり、乾燥した時期にやると経典の保存にはとてもいいという。だから決して無意味ではないが、内容を読まず、一般人には理解できない言葉を唱えながら、開いて閉じてという動作を繰り返す儀式だけでは、これから述べていく内容の重要さからすると非常に惜しいと感じられてならない。

 しかし、かつての日本の善男善女はこういう儀式などを見ていて、何かとても有り難く、「国も護られる。私にもご利益がある」という気がしたのだろう。とても有り難がってきたようだ。

 特に転読した経本で頭を撫でてもらうと一年間無病息災だと説くお寺もあり、善男善女がお正月や二日などにお参りして並び、僧侶が何人も分担しながら撫でている様子が報道されることがある。

 かつて筆者自身そうだったように、近代的な理性偏重の人間はそうした呪術的な儀式を馬鹿にするかもしれない。

 しかし、よく考えてみると心理的な安心効果というのは人間にとってきわめて重要なことである。

 ある時から、そういう意味で「こうした大般若会などの儀式が、たとえわけがわからなくても、日本人の心に安らぎを与えてきたこと、今でもある程度安らぎを与えていることには意味がある」と考えるようになった。

 その結果、こうした儀式も、やはり日本の文化のかたち、いわば無形文化財として、長く残していきたいという気がしている。

 ただ、わからないで有り難がるよりは、やはりわかって有り難がったほうが、より有り難いというか、現代人にとってより意味が深いと考え、筆者の理解しえた範囲で、〈般若経典のエッセンス〉を多くの読者と分かち合いたいと思ったのが、本書とそれに先立つ講義の目的である。

 


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