他のものとのつながりのおかげで自分は自分であれるというのが、「自己」の本質だから、そういう自己を実現するというのは、他のものと自分のつながりを創造していく、より豊かにしていくことなんだよね。……と話は続きました。
学ぶ気のある学生が相手だと、どんどん話が広がり深まって続いていきます。
時々、「うっかり聞くと話が長い」と辟易されることもありますが、今回は大丈夫だったようです。
他者とのつながりを無視した「自己実現」なんて、繰り返すけど、見せかけのいいエゴイズムだ、とぼくは思ってる。
「私は、結婚したり、まして子どもを生んだりしたら、自分のしたいことができなくなるので、結婚も出産もする気がありませんでした」と感想文に書いてくる女子学生がよくいるけど、それは結局、「自分のしたいことをすることが自己実現だ」と思っていたということだよね。
それどころかもっとはっきり、「結婚しても出産しても何のメリット(得)もないから、結婚も出産もしないつもりでした」と書いてくることもあるよ。
(この件についても、授業を受けて考えが変わる学生、女子学生がたくさんいてくれます。)
しかし、結婚や出産ってメリット・デメリット、つまり損得でしたりしなかったりするものなのかい?
だとして、きみたちのお父さんやお母さんはきみたちを生んですごいメリットがあったのかねえ。
そうとうデメリットが大きいから、内心「生んで、育てて、損した」と思ってるんじゃないか?……半分、冗談だけど。
そうじゃなくって、自分のいのちをつなげようと思って、きみを生んで、苦労して育ててきてくれたんじゃないのかなあ。
いのちをつなげていくというのは、メリットやデメリットということでは量れないことなんだ、とぼくは思うんだけどねえ。どう思う?
ふだんきみたちには宇宙的な意味と価値があると言っておきながら、あえて言うけどさ、きみたちごときもののために、20年も面倒見て、大学卒業させてくれたとしたら4年間数百万円……実は小学校から大学そして自立まで育てると、平均的に2千万円以上3千万円とかかかったりするんだって……そんな金をかけてくれる人が他に誰がいるんだ?
それは、「生んだ以上は親の責任、親の義務」とか、「自分の遺伝子を残すための必要経費」とかいうようなことなのかい?
そういう面もないことはないけど、それがポイントじゃないんじゃないかな。それは、想いなんだよ、愛情なんだよ。
想いがあるから育てる、愛情があるから苦労してくれた、そして育てても苦労しても損したとか思わない。
きみたちがちゃんと育ってくれさえすれば、親はうれしいんだよ。まして自分たちよりも幸せになってくれたら、もっとうれしい。
つまり、いのちがつながっていくこと、より豊かになってつながっていくことは、もっとも深い意味で「いのちがやりたいこと」という意味で「自分がやりたいこと」なんだね。
あえていえばそれは、個人的な損得を超越したいのちの得なんだよ。いわば「いのちの自己実現」だね。
そういう親の想いにきみたちが思い至らないとしたら、それは本質的な想像力の欠如だよなあ、思いやりが足りないんじゃないかな。
あ、言っておくけど、これは責めてるんじゃないよ。
思い至らない、つまり事実への認識が不足していたり、思いやりが足らない、つまり事実だと思われることへの想像力が欠如していたら、きみたち自身の人生の質(Quality of Life)が低くなって、いい人生が送れない、つまり結局は損をすると思うから、忠告をしてるんだってことは、これまでのつきあいでもうわかってくれるよね。
「ひとりよがりの勝手な思い込み」をしているのではなくて、「思い至る」「思いやる」――それにしても日本語はよくできているね――それがクォリティ・オヴ・ライフを高めるには必須なんだよね。
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もうひとつのブログから来ました。
『「いのちがやりたいこと」という意味で「自分がやりたいこと」』
まさにそのとおりだと思います。
私は、それは体が求めること、つまり遺伝子のプログラム、そう思っています。
ただ、遺伝子プログラムを真っ向から否定するかのような釈迦のような人間が出現することを、遺伝子は想定していたのだろうか、なんて考えることがあります。
コメント有難うございます。共感していただけて幸いです。
釈尊のような人間の出現を遺伝子が想定していたか、という点については、よろしければ、ぜひ当ブログの過去記事 http://blog.goo.ne.jp/smgrh1992/e/b4a4439afbccf798802c632deb63727d などをご覧ください。
なるほど、我々は一体である。しかし、現実に目を向けると、自分と他者には、圧倒的な違いがある。それが差別意識を生んでしまう。争いの、苦しみの原因になってしまう。
外形的な違いを見ることなく、その本質である、一なる、何ら違いのないものを見れるようになったときが悟り、と古代のインド哲学では考えたようですね。
釈迦の教えもその延長線上にあると思っています。
宇宙規模でものを思考すると、我々は、とても危うい環境にいる、ということが分かる。地殻変動による地球規模の大噴火、太陽がやがて膨張して地球もそれに飲み込まれる、巨大隕石の衝突・・・、人類が死滅してしまうような要素が満載です。
それが人類の避けられない宿命であるなら、人類の永続を願って本能のままにあれこれ画策するなどナンセンス、と釈迦は考えたのだろうか、そう思うことがあります。
でも、いずれはそうなる宿命だとて、それは、そうなったときに受け入れればいいだけで、それを前提に今を行動する必要があるだろうか、と考えることもあります。
お返事が遅れ、失礼しました。
諸行無常ですから、地球も太陽系も無常だと思いますが、それは私たちが宇宙の一部として今・ここを生き抜くことになんの差し支えもないと思います。
道元禅師の言葉を借りれば、「万法ともにわれにあらざる時節……生なく滅なし。……しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜に散り、草は棄嫌におふるのみなり」ということではないでしょうか。
われ、わがもの、そういった想いを捨てる、そこがやはり仏教に共通するものなのだろうと思いました。
われ、とか、わがもの、という概念が一切ない世界というのが悟りだとしたら、それはどんな精神状態なのだろうか、なんて考えることがあります。
でも、そんな悟りはとても不可能で、人間とは、どうしても何かに心動かされずにはいられない、われか、われではないか、わがものか、そうでないか、とそういうことを考えてしまう生き物だと思っています。
それを自覚したうえで、では、どうするか。そこに、われ、とか、わがもの、とかいう想いを捨てるという考え方をヒントに道を模索する、それが現実的な仏教、そう思っています。
「そんな悟りは不可能で、人間とは……」と言われる実感はわかります。
しかし、仏教とりわけ大乗仏教の主張は、「人間は悟れる」ということです。
しかし、悟るには大変なプロセスが必要であり、なぜほとんど不可能に思えるほど困難なのか、人間の心の構造の問題として解き明かしたのが唯識だ、と私は捉えています。
ほとんど不可能に見えるけれど、原理的には可能、原理的には可能だけれど、実際的にはほとんど不可能と思えるほど困難、という唯識の人間観はとても妥当だと思います。
よろしければ、このブログの過去記事の唯識のあたりや拙著『唯識のすすめ』(NHKライブラリー)などをご覧いただけると幸いです。
●いのちがつながっていくこと、より豊かになってつながっていくことは、もっとも深い意味で「いのちがやりたいこと」という意味で「自分がやりたいこと」なんだね。
老人ですが、ようやくこの言葉を素直に受け入れられる心境になれました。