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「本当の自信」は、他人と比較して上か下かという相対的な「自分」ではなく、比較することのできない絶対的な「自分そのもの」を認めた時に確立する、と私は考えています。
授業でそういう話をしていたら、「それは、ナンバー・ワンじゃなくてもいい、オンリー・ワンになろう、ということですね」といった学生がいましたが、そう、そういうことです。
ある学生はこういう感想文を書いてくれました、「僕は僕であることについては誰にも負けない」と。
「負けない」と表現するところに、まだ比較癖が残っているけれども、かなりいいところまで来たなと喜んだことです。
しかし、世の中にはそういうのではない自信を持っている人がたくさんいるようです。
「自信たっぷり」、「自信満々」、「自信過剰」、「傲慢」……。
しかし、「傲慢」は「本当の自信」ではありません。
「傲慢」とは、自分がある特定のことについて一定の優越性を持っていることだけに心が集中し、さらに固着・硬直して、優れているのは特定のことについてだけであることや、一定程度にすぎないことを無視して、ひたすら自分の優越感を感じ、優越性を人に誇示するような態度のことですね。
そういう硬直しひずみのある優越感が性格として固定してしまっているのを「傲慢な人」といいます。
しかし私の見てきたかぎり、そういう傲慢な人も、心のどこか――意識と無意識の境のあたり――で、自分の優越性が本当は相対的なものにすぎないことを知っています。
そして、だから、それが時と場合では劣等感に転落してしまいかねないことも知っているようです。
そのために、傲慢な人は心の奥のほうで不安を抱えていると思われます。
しかし、不安を意識化すると、それこそゆらいでしまいますから、意識しないように、心の中で抑圧しているのです。
感情は必ずエネルギーを伴っているので、抑圧するには力が必要です。
そしてまた、不安な自分を人に知られるのは、自分の弱みを見せることで、劣等性に陥ると思っています。
だから、傲慢な人は、自分の中でも、人に対しても、力まなければならなくなります。
事実ありのままに・自然にゆるぐことのない自信があるのではなく、必死に力みながら自信があるつもり、自信がある風を装っているのです。
しかも、自信というのは、事実として自分に与えられているものを自覚するのがポイントですが、やはり他から認めてもらえたほうが確立しやすいことも確かです。
ところが、傲慢な人は、ほとんど法則的に人に嫌われます。……「傲慢な人が好き」という方はいませんよね?
もちろん、その人にお金や地位や権力があるために、ゴマをする人はいるでしょう。
しかし、それが本当にその人を尊敬したり愛したりしているのではなく、お世辞や追従にすぎないことは、本人も心のどこかで知っています。
本当は嫌われている(のかもしれない)と思いながら、「オレに力があるかぎり、人はおれにお愛想をふりまいて、ついてくる。嫌でも認めざるをえないんだ」と一所懸命力んでいるというパーソナリティの状態は、哀れでもあり、また人迷惑でもある、と思いませんか?
そういう心の奥に不安を抱えて力んでいる、哀れで人迷惑な状態・傲慢さを、私は「本当の自信」とは定義しないのです。
私たちが、「自信過剰」だなと感じるのは、自信がほんものでなく、そういう「傲慢さ」に陥りつつある途中の状態のことなのではないでしょうか。
「本当の自信」は、事実にぴったり合った心の状態ですから、「不足」にも「過剰」にもなることなく、いつも「適切」なのだと思うのです。
「本当の自信」は、他人と比較して上か下かという相対的な「自分」ではなく、比較することのできない絶対的な「自分そのもの」を認めた時に確立する、と私は考えています。
授業でそういう話をしていたら、「それは、ナンバー・ワンじゃなくてもいい、オンリー・ワンになろう、ということですね」といった学生がいましたが、そう、そういうことです。
ある学生はこういう感想文を書いてくれました、「僕は僕であることについては誰にも負けない」と。
「負けない」と表現するところに、まだ比較癖が残っているけれども、かなりいいところまで来たなと喜んだことです。
しかし、世の中にはそういうのではない自信を持っている人がたくさんいるようです。
「自信たっぷり」、「自信満々」、「自信過剰」、「傲慢」……。
しかし、「傲慢」は「本当の自信」ではありません。
「傲慢」とは、自分がある特定のことについて一定の優越性を持っていることだけに心が集中し、さらに固着・硬直して、優れているのは特定のことについてだけであることや、一定程度にすぎないことを無視して、ひたすら自分の優越感を感じ、優越性を人に誇示するような態度のことですね。
そういう硬直しひずみのある優越感が性格として固定してしまっているのを「傲慢な人」といいます。
しかし私の見てきたかぎり、そういう傲慢な人も、心のどこか――意識と無意識の境のあたり――で、自分の優越性が本当は相対的なものにすぎないことを知っています。
そして、だから、それが時と場合では劣等感に転落してしまいかねないことも知っているようです。
そのために、傲慢な人は心の奥のほうで不安を抱えていると思われます。
しかし、不安を意識化すると、それこそゆらいでしまいますから、意識しないように、心の中で抑圧しているのです。
感情は必ずエネルギーを伴っているので、抑圧するには力が必要です。
そしてまた、不安な自分を人に知られるのは、自分の弱みを見せることで、劣等性に陥ると思っています。
だから、傲慢な人は、自分の中でも、人に対しても、力まなければならなくなります。
事実ありのままに・自然にゆるぐことのない自信があるのではなく、必死に力みながら自信があるつもり、自信がある風を装っているのです。
しかも、自信というのは、事実として自分に与えられているものを自覚するのがポイントですが、やはり他から認めてもらえたほうが確立しやすいことも確かです。
ところが、傲慢な人は、ほとんど法則的に人に嫌われます。……「傲慢な人が好き」という方はいませんよね?
もちろん、その人にお金や地位や権力があるために、ゴマをする人はいるでしょう。
しかし、それが本当にその人を尊敬したり愛したりしているのではなく、お世辞や追従にすぎないことは、本人も心のどこかで知っています。
本当は嫌われている(のかもしれない)と思いながら、「オレに力があるかぎり、人はおれにお愛想をふりまいて、ついてくる。嫌でも認めざるをえないんだ」と一所懸命力んでいるというパーソナリティの状態は、哀れでもあり、また人迷惑でもある、と思いませんか?
そういう心の奥に不安を抱えて力んでいる、哀れで人迷惑な状態・傲慢さを、私は「本当の自信」とは定義しないのです。
私たちが、「自信過剰」だなと感じるのは、自信がほんものでなく、そういう「傲慢さ」に陥りつつある途中の状態のことなのではないでしょうか。
「本当の自信」は、事実にぴったり合った心の状態ですから、「不足」にも「過剰」にもなることなく、いつも「適切」なのだと思うのです。
傲慢の特徴について、ちょっと自分のまわりや自分自身のことを振り返ってみても、ああそうだな、と納得できます。
言われてみるとこんな簡単なことなのに、ふつうにはそのへんがすごくあいまいに混同して考えられていて、「自信をつける」なんてすごい力んでムリをすることのように捉えられていると思います。
あらためてほんとうの自信のほうを身につけたいと思いました。
参考にしていただけて幸いでした。
傲慢がほんとうの自信ではないと気づいたら、それは損なのだというところまで自己洞察を深めるといいですね。
傲慢で損な生き方をしているより、ぜひほんとうの自信を身につけましょう。
「傲慢」と「本当の自信」とは相反するものではないのではないでしょうか?
「これで、世界で2番目に計算が上手な奴が生まれた」
天才であるフォン・ノイマン博士がノイマン型コンピューターを開発した際に言った言葉です。この言葉は「どう見ても」ノイマンの「傲慢」に充ちています。
自らコンピューターを生み出した後でも、『世界で最も計算が上手な者とは他ならぬ自分である』と豪語しているのです。
つまり、ノイマンは自信が無かったのでしょうか?世界で300番目に計算が上手で謙虚な人間の方が、自分に自信を持てたのでしょうか?
「我輩の辞書に不可能という文字はない」と言ってのけたナポレオンには「本当の自信」がなかったのでしょうか?
天才に恵まれ、それを徹底的に研磨し、美しく開花させた者にとって「傲慢さ」とは必然的に生じるものでしょう。それを表出するかどうかは本人の性格・立場などによるものです。世界で300番目の人間が傲慢でなかったとしても、それは彼が「少なくとも傲慢さを感知されないように振る舞っていた」以上のことは意味しません。純粋に能力を求められる世界(スポーツ・学問など)においてそれを表出するかしないかなど、我々にとってどうでもいいことです。
傲慢であることが許される者が持つ自信が「本当の自信」ではないとしたら、「本当の自信」とは何なのでしょうか。「本当の自信」には麻酔作用以外の価値があるのでしょうか?
反論的疑問のコメント、有難うございました。
「本当の自信」というのは、私の定義の仕方ですから、他の方が別の定義をされることに異議をさしはさむつもりはありません。
ただ、他の関連記事も含め全体を読んでいただけると、もう少し別の感想を持っていただけるかもしれません。
よろしければ、ご覧いただけると幸いです。
ノイマンの例は実力の裏付けがあるので「ナルシズム」に近いと理解いたしました。
このブログには「ニヒリズム」というワードで辿り着き、その記事からここまで「ニヒリズムの克服」を求めて読みすすめて参りました。しかし、ニヒリズムの克服のために「うぬぼれ・ナルシズムを批判する形」で「本当の自信」を定義し、それを持つことが大事であるとしたら、それは「克服した」というよりも「退却した」という表現の方が正しいのではないのでしょうか。
(どちらが優れていると主張したいわけではないのですが…)
「本当の」という枕詞をつけることによって、それ以外の自信(上で挙げたような、ノイマンやナポレオンによる現状の実力に伴う自信)の価値を不当に低く見積もるという「価値転倒」が生じることは明白です。価値転倒をするべきではないというわけではありませんが、ニーチェはルサンチマンによるその行為を批判しました。
たとえばオンリーワン思想は麻酔的思想です。この世にオンリーワンでない人間など存在しません。つまり、誰しもが「私はオンリーワンである」ということをもって、自分の価値を上げることができます。よくも悪くも現状を「軽視」することができる(≒麻酔作用)わけです。
ニーチェがキリスト教を批判した理由のひとつに、「現状軽視を推奨している」というものがあります。
オンリーワン思想が蔓延すれば、それこそ彼の批判の対象になってしまうのです。
したがって「ニーチェの批判以前のキリスト教的思想に撤退した」「ニヒリズム以前にタイムスリップした」という印象が否めないのです。これでは延々に繰り返すことになるのではないのでしょうか。
なので私は「克服」というより「退却」と表現いたしました。
もちろん、ニヒリズムに苦しむ人々にとっては対処療法的な価値はあると思います。
ということで私も「麻酔作用としての価値」は認めております。
このまま放置されているのも気になるので書かせていただきます。
まず、このブログ記事で「本当の自信」を「うぬぼれ・ナルシシズムを批判する形で定義している」とは、どうやっても読めません。
他の回のところで「本当の自信」の定義が書かれているので、このことを論じるなら、そちらをしっかり読んでからコメントされるのが筋です。
そういうわけで、これは「反論的疑問」というより、単なる「テキストの誤読(というか未読?)」だと思いました。
テキストをご自分の間尺に合わせて読み取りたいように読まれるのは「思想の自由」=勝手ですが、誤読に基づいて「退却だ」と表明されるのは失礼なのではとおせっかいながら感じました。(書き手もきっと徒労感をおぼえることでしょう。)
また、ニヒリズムの克服は同じコスモス・セラピーの中核部分である宇宙カレンダー・コスモロジーでなされていることであって、その実践編というか前段の「自信のワーク」部分でニヒリズム克服云々されるのもまた全く的外れだと感じます。
ニヒリズム克服について、このブログ記事の趣旨に反論的にせよ論ずるなら、技術論であるワークの個所でコショコショ言うのではなく、ニーチェ自身が人生をかけて悩んだところの(そして克服しきれず狂って死んだ(?)ところの)世界観・宇宙観の問題、つまりこのブログのメインテーマであるコスモロジーについて、その個所で堂々と論じられたらいかがですか?
そのことで「キリスト教精神に撤退した」というなら、「コスモロジーすなわち『大きな物語』を論じること自体が神話的思考への退却だ」という誤解に対するまた別の反論があるわけですが、的を外しているので反論のしようもありません。
ニーチェ関連のタームで書いておられることも、21世紀・現代科学の今となっては古色蒼然たるものだなあと感じます。
西洋哲学史のビッグネームを持ち出すとよくわからない話ももっともらしく聞こえるということ、そしてニーチェがいまやコンビニでも薄められて売られていてある種時代に「受けている」という事情は理解しますが。
いずれにせよ、前々世紀(!)の人が、その時点での限界ある近代科学に基づいて世界に読み取った「絶望」に共感し、21世紀にもなって無批判にその言葉を担ぎ出してニヒリズム云々を語るとすれば、それこそ精神の退却そのもの、「ニーチェ教」の麻酔作用そのものにほかならないと思います。
書いておられるとおり、「麻酔」や「退却」ではニヒリズムを超えることは決してできないでしょう。
「ニヒリズム」を脱するという点で、コスモロジーの考えはすばらしく有効であると思いました。
>>まず、このブログ記事で「本当~~
「自信とは、自己承認と他者承認がバランスよくある状態である」
でよろしいでしょうか。
「心の奥に不安を抱え、力まなくてはならないような自信・ナルシシズムも、ふつうの意味でいえば自信の一種でしょうが、私の定義する「本当の自信」ではありません。」
とありましたので、うぬぼれ・ナルシシズムを批判する形で定義しているといった表現を致しました。否定といった方が適切でしたね。
―――
麻酔という表現について…
悲惨な状況にいる人々(例えばブラック企業の社員)が思想を持つことにより、世界の見方が変化したとします。しかし、変化したのはあくまでも「見方」であって、周りから見たときその方が置かれている「状況」は全く変化していません。
「麻酔」をすると痛みは消えます。しかし、痛みが消えている現状を「肯定」しても解決にはならず、治療を施さなければ意味がないように、彼らは現実問題として他人から搾取されているので、見方のみが変化した世界を肯定してしまえるようになるのは、はたしていかがなものかと思うのです。
原因→状況→感覚の「感覚のみ」が改善しても状況は変わってないんじゃね?と思ったので、オンリーワンについて言及した次第です。
ナンバーワン…「原因;才能や練習量」→「状況;実力がついた」→「感覚;自信がある」
オンリーワン…「原因;特になし」→「状況;そのまま」→「感覚;自信がある」
どちらが良いのかについては、何度も言うように私もわからないのですが…。
―――
>>ニーチェ関連のタームで~~
ニヒリズムについてニーチェが出てくるのは当然ではないでしょうか?
>>21世紀にもなって無批判にその言葉を~~
ニーチェに共感できるのは「現状重視」の部分です。「無批判に」というのは違います。変なこと&間違ったことも色々言っていると思うので…。彼の思想による麻酔作用とはどういったものでしょうか?「現実大事!」と言う点で、麻酔作用どころかその真逆に位置すると思うのですが…。
studyboxさんへのコメント、お世話さまでした。しっかり学んでいただいているようですね。
>studybox さん
とても問題意識がある方のようですね。
コスモロジーがニヒリズムを克服するものであるという点もご理解いただけつつあるようで喜んでいます。
しかし、ニヒリズムもコスモロジーもきわめて個人的・個性的なもので、それぞれの人において多様性があると思います。私のお伝えしていることは、あくまでも参考で、ご自分のコスモロジーとして採用しご自分のニヒリズムを克服するかどうか、できるかどうかは、ご自分の問題ですね。いうまでもありませんが。
さて、少しだけコメントをお返しすると、私の考えでは、人間はものの見方を変えることによってかなりの程度感情(例えばうつ的、ニヒリズム的な)を変えることができ、感情を肯定的に変えると行動も肯定的に変えられるようになるものです。
つまり、本当の自信という感覚・感情は、現状に甘んじることなく現状を改善していく意欲を生み出しますし、またその結果、しばしば現状を改善することができます。
そういう意味で、オンリーワンの自信は、麻酔ではなくカンフル剤あるいは栄養補給に喩えるほうがいいと思っています。
ニーチェについては、まだ現代科学のようなコスモロジーがない時代に、近代科学のコスモロジーが必然的に陥る結論まで突き詰めてしまったという意味で、思想的に誠実ではあったが、不運だった、気の毒だった、と思っています。私の考えでは、彼の見た「現実」や「現状」は近代科学的コスモロジーという色メガネを通して見たかぎりでの現実・現状だったのだと思われます(彼のいう「強さ」「力」「生命」などはきわめて通俗的ダーウィニズムの臭いがします)。
あるサイトで、「傲慢であって何が悪い。誰でも傲慢なところはある」と開き直る人がいます。傲慢であることを臆することもなく自慢げに言うその姿勢を私は、かわいそうだと思います。
記事が非常に参考になりました。的確なご指摘ありがとうございました。