多くの人が、「エコロジカルに持続可能な社会」について、建前としては賛成だが本音でいうと実際には無理だろうと思って、先延ばしにしたり、あきらめたりしてしまうのにはいろいろ理由があるでしょう。
中でも1つ大きな理由は、「人間の物質的な欲望というのは、基本的に限りなく肥大していくものであるから、それを無理に抑えるのはできない話だ」と思い込んでいる人が多いということではないかと思います。
社会の主導権を握っている人もそうだし、国民の多くも市民もそのようです。
「人間の欲望というのは、豊かになればもっと豊かになりたくなるし、便利になればもっと便利にしたいと思い、贅沢すればもっと贅沢したくなるもので、それはしかたがない、たとえ環境が破壊されると言われても、それなら私(たち)の利益はほどほどに抑えます、と言えないのが人間というものだ」と思い込んでいるために、「高度経済成長型の社会をやめられないのはしかたがない」と思っている人が多いのではないでしょうか。
しかし、ほんとうにそうなのでしょうか? ほんとうはそうではない、と私は考えています。
そこで考えてみたいのですが、人間の欲望について基本的に3つの考え方があると思います。
第1は、「欲望は限りなく肥大するものである」という考え方です。日本の主流の「本音」はこれだと思われます。
第2は、いわば「建前」として、「欲望は抑制すべきであり、理性・意思によって抑制できるのだ」という考え方です。多くのエコロジー派の方がこんなふうに考えておられるのではないでしょうか。
しかしこれは、実際の現場では欲望を抑えられない人のほうが多数を占めているので、なかなか実行できません。自分の欲望を抑える気のある、一部の建前を大事にする人は一生懸命努力をしますが、そこまで建前を貫く気のない人は抑えられないなので、全体として欲望の肥大は抑えられない方向に走ってしまうというパターンです。
そういう、「本音でいく人」対「建前を貫こうとする人」という対立構造で、多数の経済成長派と少数のエコロジー派がにらみあってきたのが、ここのところ40年ちかい日本のパターンではないかと思われます。しかし、これでは問題解決はできない、と私は考えています。
第3は、「欲望は、もともとは節度のある自然な欲求がゆがんで肥大化したもので、治療できる」という考え方です。
人間の欲望が、本質的に第1のように無限に肥大するものであれば、人類の未来についてはあきらめるか、さもなければ、技術の進歩でそのうち何とか解決できると信じるほかないでしょう。
第2の捉え方では、「抑制すべき」とか「抑制できるはず」という考えに反して、現実としては人類は全体として欲望肥大の方向に向かっているという事実をうまく理解・分析ができないのではないでしょうか。
うまく理解・分析できないまま、「欲望が抑えられないのは、理性・意思のトレーニングが足りないからで、これからトレーニングをすればなんとかなる。知識を与えて、教育すれば、きっと自分で理性的にコントロールできるようになるはずだ。そういうことをねばり強くやっていくと、だんだんみんなが賢くなって世の中が変わるだろう」と考えることになります。
確かに、スウェーデンなどの「環境先進国」の環境教育を考えると、政府主導で国民全体に対してしっかりとした教育がなされれば、相当程度、こうしたことも可能なようです。
4象限のところでお話した、左下・集団の内面の象限、つまり文化全体が環境志向になっていれば、左上・個人の内面、それぞれの欲求のあり方も影響を受けて、環境志向になる強い傾向をもつでしょう。
しかし、深層心理学の洞察によれば、「人間の心というのは、意思や意識よりもむしろ無意識や情動の部分のほうが圧倒的に深くて強い」という面があると考えられます。
つまり私たちの欲望というのは、「なぜか、どうしても、そうしたくなる」ものです。「理屈ではわかっているんだけど、言われるとわかっているんだけど、でもそうしたい」、つまり心の奥から湧いてきて、私たちを駆り立てるというところがあると思います。
理性は「やめたほうがいい」と言い、意思では「やめよう」と思う、でも何かに衝き動かされてやめられないということがしばしばあります。
しかし、こうした、人間の心には深層という部分があることは今教育の世界の常識にきちんとなっていませんし、まして国民的な常識にはなっていません。
そこで、教育の場では、「人間の心というのは、教育して教え込んだら、きちんと理性的になって、理性的な行動のできるような意思が確立できるはずだ」と考えて、いいことを一生懸命教えるのですが、いくら教えても必ずしも実行しない、できないことがあります。
それはなぜかというと、実行したくない心の奥の本能、深層に潜んでいるものがあるからだと解釈しないかぎり、説明がつかないのではないでしょうか。
深層心理学的な視点からすると、欲望の源泉は意識ではなくて無意識の領域に潜んでいて、意識に現われてきたり、あるいは潜んだままで意識を陰から揺り動かし操るものです。
そのために、意識・理性・意思による直接的なコントロールが難しいのです。
そのために、第1の捉え方のように、「限りなく肥大していくもので、どうしようもない」ように見えてしまうのです。また実際に、現象としてはとりあえずそうなのです。
ですから、無意識の問題を捉えないまま、一生懸命、欲望を理性や認識や意思でコントロールしようとするアプローチには、もちろん社会全体で合意して行なえれば、相当な効果はあるのですが、限界もあると思うのです。
それに加えて、「無意識をどうやって変えるか」という発想が必要だ、と私は考えてきました。
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中でも1つ大きな理由は、「人間の物質的な欲望というのは、基本的に限りなく肥大していくものであるから、それを無理に抑えるのはできない話だ」と思い込んでいる人が多いということではないかと思います。
社会の主導権を握っている人もそうだし、国民の多くも市民もそのようです。
「人間の欲望というのは、豊かになればもっと豊かになりたくなるし、便利になればもっと便利にしたいと思い、贅沢すればもっと贅沢したくなるもので、それはしかたがない、たとえ環境が破壊されると言われても、それなら私(たち)の利益はほどほどに抑えます、と言えないのが人間というものだ」と思い込んでいるために、「高度経済成長型の社会をやめられないのはしかたがない」と思っている人が多いのではないでしょうか。
しかし、ほんとうにそうなのでしょうか? ほんとうはそうではない、と私は考えています。
そこで考えてみたいのですが、人間の欲望について基本的に3つの考え方があると思います。
第1は、「欲望は限りなく肥大するものである」という考え方です。日本の主流の「本音」はこれだと思われます。
第2は、いわば「建前」として、「欲望は抑制すべきであり、理性・意思によって抑制できるのだ」という考え方です。多くのエコロジー派の方がこんなふうに考えておられるのではないでしょうか。
しかしこれは、実際の現場では欲望を抑えられない人のほうが多数を占めているので、なかなか実行できません。自分の欲望を抑える気のある、一部の建前を大事にする人は一生懸命努力をしますが、そこまで建前を貫く気のない人は抑えられないなので、全体として欲望の肥大は抑えられない方向に走ってしまうというパターンです。
そういう、「本音でいく人」対「建前を貫こうとする人」という対立構造で、多数の経済成長派と少数のエコロジー派がにらみあってきたのが、ここのところ40年ちかい日本のパターンではないかと思われます。しかし、これでは問題解決はできない、と私は考えています。
第3は、「欲望は、もともとは節度のある自然な欲求がゆがんで肥大化したもので、治療できる」という考え方です。
人間の欲望が、本質的に第1のように無限に肥大するものであれば、人類の未来についてはあきらめるか、さもなければ、技術の進歩でそのうち何とか解決できると信じるほかないでしょう。
第2の捉え方では、「抑制すべき」とか「抑制できるはず」という考えに反して、現実としては人類は全体として欲望肥大の方向に向かっているという事実をうまく理解・分析ができないのではないでしょうか。
うまく理解・分析できないまま、「欲望が抑えられないのは、理性・意思のトレーニングが足りないからで、これからトレーニングをすればなんとかなる。知識を与えて、教育すれば、きっと自分で理性的にコントロールできるようになるはずだ。そういうことをねばり強くやっていくと、だんだんみんなが賢くなって世の中が変わるだろう」と考えることになります。
確かに、スウェーデンなどの「環境先進国」の環境教育を考えると、政府主導で国民全体に対してしっかりとした教育がなされれば、相当程度、こうしたことも可能なようです。
4象限のところでお話した、左下・集団の内面の象限、つまり文化全体が環境志向になっていれば、左上・個人の内面、それぞれの欲求のあり方も影響を受けて、環境志向になる強い傾向をもつでしょう。
しかし、深層心理学の洞察によれば、「人間の心というのは、意思や意識よりもむしろ無意識や情動の部分のほうが圧倒的に深くて強い」という面があると考えられます。
つまり私たちの欲望というのは、「なぜか、どうしても、そうしたくなる」ものです。「理屈ではわかっているんだけど、言われるとわかっているんだけど、でもそうしたい」、つまり心の奥から湧いてきて、私たちを駆り立てるというところがあると思います。
理性は「やめたほうがいい」と言い、意思では「やめよう」と思う、でも何かに衝き動かされてやめられないということがしばしばあります。
しかし、こうした、人間の心には深層という部分があることは今教育の世界の常識にきちんとなっていませんし、まして国民的な常識にはなっていません。
そこで、教育の場では、「人間の心というのは、教育して教え込んだら、きちんと理性的になって、理性的な行動のできるような意思が確立できるはずだ」と考えて、いいことを一生懸命教えるのですが、いくら教えても必ずしも実行しない、できないことがあります。
それはなぜかというと、実行したくない心の奥の本能、深層に潜んでいるものがあるからだと解釈しないかぎり、説明がつかないのではないでしょうか。
深層心理学的な視点からすると、欲望の源泉は意識ではなくて無意識の領域に潜んでいて、意識に現われてきたり、あるいは潜んだままで意識を陰から揺り動かし操るものです。
そのために、意識・理性・意思による直接的なコントロールが難しいのです。
そのために、第1の捉え方のように、「限りなく肥大していくもので、どうしようもない」ように見えてしまうのです。また実際に、現象としてはとりあえずそうなのです。
ですから、無意識の問題を捉えないまま、一生懸命、欲望を理性や認識や意思でコントロールしようとするアプローチには、もちろん社会全体で合意して行なえれば、相当な効果はあるのですが、限界もあると思うのです。
それに加えて、「無意識をどうやって変えるか」という発想が必要だ、と私は考えてきました。
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それは、脳細胞の働きである心は無限で無いのだから、なるべき自身を実現するという欲望を持てば全ての悩みは氷解してしまうのではと考えます。
そういった事を論証すべく「何を教えるか」というブログを書き始めました。
校了すれば、四万字位になると思いますが、今は未だ一万五千字弱の段階です。
是非、一読頂いて、色々コメントを入れて頂ければ幸です。
ここへは、一顆明珠さんのブログのリンクから入らせて頂きました。
良きご縁となる事を念じております。
私たちは望まずとも、歳をとり、病気にもなります。事故や心臓発作などで、明日死んでしまうかも知れません。悩みや苦しみから逃れられず、心を病んだりもします。
自分の若さ・健康・生死・心をも自由にならない。ましてや、子も、夫(妻、恋人)も、地位も、財産も思い通りにならないということは、「自分のもの」というものは何もなく、すべては自らの「所有意識という思い込み」にすぎません。
自分のものは何もないということは、私たちには失うものは何もないのです。「なくすものは何もない」ということを本心から悟ることができれば、名誉、地位、財産、大切な人、そして命までをも失う不安から解放されるのではと思います。