近代科学の根本的な問題は、「主客分離」と「分析-総合」という方法があまりにも切れ味がよく、かつ便利がよかったので、ついついその方法によって見えてくる世界の姿が、世界の現実そのものだと取り違えたところにある、というのが私の考えです。
よく考えて見ましょう。
何かを観察・研究する場合、自分の主観をいったん脇に置くことはとても大切で、有効・妥当です。
しかし、事実を考えてみると、観察・研究している時にも、実は対象・客体と研究者・主体にはつながりがあります。
分析で「生きた現実」を捉え切ることはできません。
例えば私たちの世代が中高生の頃、やらされたカエルの解剖の場面を取ってみましょう。
麻酔をかけられたカエルは、解剖という研究の対象として、いろいろな内臓や筋肉などに切り分けられていきます。
そうすると、確かにカエルという生き物の内部の仕組みが分かってきます。
これを日本での人体の解剖の場合に置き換えてみると、それまで漢方の医学書に書いてあったことを鵜呑みに信じていたのに対して、「本当に人間の臓器はそうなっているのか?」と疑問を持って、人体を切り分けることによって、臓器の実態が分かってきました。
それは、手術など医療技術の飛躍的な進歩に貢献したのです。
しかしよく考えると、切り分けて死んでしまったカエルは、生きていたカエルではありません。
たとえ、切り分けられてばらばらになった臓器や筋肉や手足を縫合してつなぎ合わせて、元のかたちに戻しても、それは生きた全体としてのカエルにはならないのです。
しかも生きたカエルは、実はカエルだけで生きているのではありません。
一匹のカエルがそこに生きているためには、まず何よりも長い長いカエルの先祖たちからのいのちのつながりが必要です。
そしてカエルが食物として食べる無数の虫たちのいのちが必要です。
住む場所としての、池や川、そしてその水が必要です。
吸っている空気も必要です。
吸う酸素を出してくれる植物や水中微生物も必要です。
……こうしたことは、考え始めると終わらないくらい無数にあるのです。
こうしたさまざまなものとの絶えることのないつながりがカエルを生かしています。
そして、そのカエルと私は、おなじ地球でおなじ空気を吸って生きています。生きている環境・世界を共有しているという意味で、つながっているのです。
生きた現実としての私とカエルと世界は「主客分離」などしていません。
これは1例にすぎませんが、世界中のあらゆるものがつながり合って存在しているというのが、「生きた現実」なのではないでしょうか?
近代科学は、すべてを究極の部分(ある段階では「原子」という「物質」)に分析・還元して、世界の客観的な姿を捉える努力をしてきました。
繰り返していうと、それは、研究の方法としては、きわめて有効・妥当だったのですが、まず何よりも、「生きた現実」としての世界の姿を捉えたとはいえません。それが第1の問題点です。
そして第2の問題点は、すでにお話ししてきたように、そうした方法で描かれた世界は、ばらばらのモノ(原子)の組み合わせでできていて、神も魂もそういう方法では検証できない以上存在しないことになったということです。
個々人のいのちや心さえも「物質の組み合わせと働きにすぎない」ということになったのです。
「神はいない。人間とモノだけがある」から「神はいない。モノだけがある」というところまでいった物質還元主義(唯物主義)な科学の目で見ると、「すべては究極の意味などないただのばらばらのモノの寄せ集めだ」ということになります。
世界はばらばらのモノの寄せ集めであると考えるような世界観を、私はわかりやすく〈ばらばらコスモロジー〉と呼んでいます。
近代の世界観はつきつめると〈ばらばらコスモロジー〉になり、それを人生観にまで適用すると、ニヒリズム-エゴイズム-快楽主義に到らざるをえない、そこに近代の決定的なマイナス面・限界(の主要な1つのポイント)がある、というのが私の見方です。
明治維新と敗戦による「近代化」によって、日本人は近代のプラス面だけではなくマイナス面も背負うことになったのだと思うのです。
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