もう1回だけ、やや暗い、でもたぶんみんな非常に共感できる話を。
みなさんもよくご存知のブレーズ・パスカルは、近代初期の人で(1623~1662)、近代人としての典型的な悩みをつきつめたことで知られています(参考書:三木清『パスカルにおける人間の研究』岩波文庫)。
彼は、まずすぐれた科学者として出発し優れた業績をあげましたが(「パスカルの原理」)、やがて近代の科学合理主義のマイナス面を深く見つめた思想家となり、結局、自らを救うためにカトリックの熱烈な修道者になっていきました。
有名な『パンセ』は、前半では近代人が必ず陥る「空しさ」とそこからの逃避としての「気ばらし」について述べ、後半では空しさからの救いはキリスト教信仰しかないことを論証しようとしています。
後半は現代人の私たちにはあまり説得力がないように思いますが、前半はまるで自分のことをいわれているかのようにリアリティがあります。
これまでお話ししてきたことの例証として、少し引用してみようと思います(『パンセ』田辺保訳、角川文庫版、読みやすくするために原文にない改行を加えました)。
「この劇(人生のこと――筆者注)は、ほかの部分ではどんなに美しくても、最後の場面は血みどろなのだ。頭から土をかぶせられて、それでもう永遠に一巻の終りである。」(断章210)
「流転――自分の所有するすべてのものが流れ去っていくと感じるのは、なんとおそろしいことであろうか。」(断章212)
近代的・物質還元主義的な科学で考えると、確かに人間は死んだら「無になる」、「土になる」、「もう永遠に一巻の終り」ということにならざるをえません。
「こんな状態を想像してみるといい。
大ぜいの人たちが鎖につながれている。その人たちはみな、死刑の宣告をうけた人たちだ。
その中の何人かが、毎日のようにみんなの見ている前で首を切られ、残った者は、そういう仲間の身の上がやがて自分の身の上になるのを知って、希望もなく・悲しそうに顔と顔とを見合わせながら、自分の順番が来るのを待っている。
人間の条件を絵に描いてみればこうなる。」(断章199)
「死んだらすべてが終り」、そして死はかならずすべての人にやってくる。「人間の条件を絵に描いてみればこうなる」わけです。
しかし、近代合理主義的な面もある思想家として、パスカルはこう考えて強がってもみます(おそらくパスカルのもっとも知られた言葉ですが、パスカルのポイントではありません)。
「人間は一本の葦にすぎない、自然の中でもいちばん弱いものだ。だが、それは考える葦である。これを押しつぶすには、全宇宙はなにも武装する必要はない。一吹きの蒸気、一滴の水でも、これを殺すに十分である。
しかし、宇宙が人間を押しつぶしても、人間はなお、殺すものより尊いであろう。人間は、自分が死ぬことと、宇宙が自分よりもまさっていることを知っているからである。宇宙はそんなことは何も知らない。
だから、わたしたちの尊厳のすべては、考えることのうちにある。まさにここから、わたしたちは立ち上がらなければならないのであって、空間や時間からではない。わたしたちには、それらをみたすことはできないのだから。だから、正しく考えるようにつとめようではないか。」(断章347)
けれどもどんな正しく考えてみても、近代のばらばらコスモロジーによっては、人生に関する根本的に重要な問い――Big Questions――の答えを知ることができません。
「だれが、わたしをこの世界に置いたのかを、わたしは知らない。この世界がどんなものであるか、わたしがなにものであるのかも、知っていない。わたしは、すべての事柄についておそろしいような無知の状態にいる。
……わたしには、自分を閉じこめているこの宇宙のぞっとさせるような空間が見えてくる。自分がこの広大な広がりのほんの片隅につながれた存在であることがわかってくる。
しかも、このわたしは、なぜ自分があちらでなく、こちらに置かれているのか、知っていない。
また、自分に与えられている生きるためのこのわずかなわずかな時間が、わたしに先行するすべての永遠の時と、わたし後にくるすべての永遠の時の中で、他の地点に定められず、この地点に定められたのはなぜかも知らない。
どちらを見ても、わたしの目に映ってくるのはただはてしれない無限ばかりである。その無限がわたしを一原子のように取りかこみ、一瞬ののちにはたちまち消え去って戻ることのない影のように取り包んでいる。
わたしがよく知っていることといえば、自分がやがて死ななければならないということだけである。しかも、どうしても避けることのできないこの死を、わたしはいちばん知らないのである。
わたしは、自分がどこから来たのかを知らないのと同様に、自分はどこに行くのかも知らない。
わたしはただ、自分がこの世を離れたら、未来永劫に虚無の中におちこむか、それとも怒りの神のみ手の中におちこむかどちらかであることだけを知っている。
しかし、この二つの条件のうちどちらの方に、わたしが永遠にふりあてられているはずなのかを、わたしは知らない。これが、わたしの状態なのだ。弱さと不確実さにみちたわたしの状態なのだ。(後略)」(断章194より)
あえていえば、「すべては偶然である」ということにしかなりません。
こうした人間のおそろしいまでの無知に気づいて、宇宙のことを考えると、以下のような感情が湧いてきます。
「この果てしない空間の永遠の沈黙が、わたしにはおそろしい。」(断章206)
近代人がばらばらコスモロジーを元にして人生を考えると、心の底からおそれや空しさが湧き出してきます。
先にご紹介した女子学生の言葉でいえば、「考えれば考えるほど、死にたくなる」のです。
そしてそこで彼女の友人のように、「バカ、考えるから死にたくなるんだ。考えるのはやめたほうがいい」という手を考え出すことになります。
「気ばらし――人間は、死も惨めさも無知も癒すことができなかったので、幸福になるために、こういうことは考えずにいようと思いついたのだった。」(断章168)
「……こうした惨めさを見ながらも、人間は幸福になりたいと思う。幸福になりたいとのほかは何も思わない。また、そう思わずにはいられない。けれど、それにはどうしたらいいのだろう。その望みをかなえるためには、さしずめ、自分が不死の者にでもならなければならないのであろう。だが、そうなることはできなかったので、人間は、こういう惨めなことはもう考えずにおこうと思いついたのだった。」(断章169)
「……この弱く、死すべき人間の条件のことは、わたしたちが、そのことをつきつめて考えてみると、もう何ものによってもなぐさめられないほどに惨めであわれなものである。……だから、人間にとってただ一つの幸福は自分の条件を考えることから、気をそらすということにつきるのだ。何かに熱中してそんなことを考えずにすますか、目あたらしい・快い情念の中にいつもおぼれているか、賭けごとをしたり、猟をしたり、おもしろい芝居でもみたり、要するに、いわゆる「気ばらし」をして、気をまぎらすことにつきるのだ。」(断章139)
しかし多くの学生が報告してくれます。「みんなと一緒にいて騒いでいる時はいいんですが、下宿に帰って一人になると、また空しくなって死にたくなるんです」と。
「退屈――情熱もなく、仕事もなく、楽しみもなく、精神の集中もなく、完全な休息状態にあるほど、人間にとって耐えられないことはない。その時、人間は、自分の虚無、自分の見捨てられたさま、自分の足りなさ、自分の頼りなさ、自分の無力、自分の空虚をひしと感じる。たちまち、人間のたましいの奥底から、退屈、憂い、悲しみ、悩み、怨み、絶望が湧き出してくるであろう。」(断章131)
ニヒリズムとそれからの逃避としての快楽主義は、17世紀の哲学者パスカルから21世紀の若者に到るまで、一見、「それしかない」と思えるような、近代主義者が迷い込む迷路、しかもおそらく行き止まりの迷路であるようです。
では、この迷路からは抜け出せないのか? 抜け出せる! というのが私の考えです。
暗い話が続きましたが、次回からようやく明るい話になっていく予定です。ご期待ください。
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