意識上の根本煩悩1:貪(とん)――過剰で不健全な欲望

2006年03月27日 | 心の教育

 意識には、残念ながら善の心だけではなく、煩悩の心も働いています。

 というか、ふつうの人間の心は煩悩だらけと言ってもいいくらいです。

 ちょっと反省心・慙愧の念のある方なら、「私の心はほんとうに煩悩だらけだなあ」という実感があるのではないでしょうか。

 私たちは、マナ識の4つの根本煩悩から生まれる、意識上の6つの根本煩悩も抱えている、さらにそこから生まれる20種類もの随煩悩がある、というのが唯識の洞察です。

 ここの部分は学んでいると、ガマの油売りの口上ではありませんが、「己の姿の醜さに脂汗がたらりたらりと……」という気分になってきて、うんざりすることでしょう(私もそうでした)。

 が、ここがインフォームド・コンセントの頑張りどころです。

 「こういう症状がありませんか。あるとしたら、あなたは病気です」という、ちょっとショックな診断が下されますが、それはその後で「でも、ちゃんと治療すれば治ります」という話になっていくのですから。

 さて、538年または552年、日本に公式に仏教が導入されて以来、1400年以上経って、「煩悩」という仏教用語は誰でも知っている日常の言葉になっています。

 そういう仏教のコンセプトが導入されたことによって、「煩悩だらけの自分」が自覚でき、慙愧の念が起こり、その結果、日本人のすばらしい国民性の1つである真面目さが育ってきた、という面もあると思います(儒教の影響ももちろんあります)。

 しかし残念なことに、いろいろな事情があって、その「煩悩」という言葉が正確・厳密にはどういう意味なのかということに関しては、日本人の常識になってきていません。

 それどころか、戦後の資本主義大量消費社会では、欲望の解放-追求こそ経済を活性化させるものとして歓迎されてきて、いまや日本は欲望の氾濫・野放し状態だと言ってもいいくらいです。

 それに対する反動として、『清貧の思想』という本がベストセラーになったこともありましたが、所詮反動であって、社会全体はますます富の追求、「金持ち父さん」志向へと急傾斜しているようです。

 経済以外の分野でも、欲望の追求-充足こそ人生、煩悩があるからこそ人間らしい……と考えている人の数が増えているように思えます。

 そういう状況の中で私たちが自分の価値観や生き方をどうするか考えるに際して、「善の心4」のところでお話しした、過度で異常な「欲望」と適度で正常な「欲求」の区別はきわめて重要です。

 意識上の根本煩悩の第一にあげられている「貪(とん)・貪り」とは過度で異常な「欲望」のことを指しているのであって、適度で正常な「欲求」まで煩悩として否定されるわけではないのです。

 しかしとはいっても、人間の心の奥にはマナ識が働いているために、4つの根本煩悩によって意識がコントロールされてしまいがちだというのも確かです。

 特に我慢と我愛の心は、必要以上・過剰な自己防衛や自己顕示の欲望を引き起こしがちです。

 過剰な自己防衛・自己顕示欲があると、お金はさまざまな面で一定程度自分を守ってくれますし、お金があれば自分を飾るためのさまざまなものを得られますから、過剰・異常にお金が欲しくなってしまうわけです。

 我愛の心は、自分の快楽・快感・幸福への病的・過剰な執着を引き起こしがちです。

 そのために、性、財産、社会的地位、名誉といったものへの欲求も、自然な範囲を超えて過剰で不健全なものになってしまいがちなのです。

 過剰で不健全な欲望・貪りの心を、どのようにして適度で健全な欲求・適欲の心に変えられるか、それが問題です。


*人間と違って花は健やかで美しいですね。神田川沿いのレンギョウの花。

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