般若経典のエッセンスを語る2

2020年09月28日 | 仏教・宗教

 予備知識としてまず般若経典群が書かれるまでの仏教史をごく大まかに見ることから始めよう(予備知識のある読者は飛ばしていただいてもかまわない)。

 歴史学的に研究されてきたゴータマ・ブッダ自身の仏教を、仏教学上は「原始仏教」と呼ぶ。続いて、ブッダが亡くなった後、弟子たちが引き継いだ仏教を、それと区別して「初期仏教」と呼ぶことがある。

 さらにその後、ブッダの死後百年くらい経って、ブッダが言い遺した戒律の解釈の違いによって、まず大きく二つに分裂する。これを「根本分裂」という。

 基本的には、弟子たちの席順で上のほうにいたので「上座部(じょうざぶ)」と呼ばれる人々と、数が多かったので「大衆部(だいじゅぶ)」と呼ばれる人々の二つの派に分かれる。ちなみに現代語の「大衆」はここから来ている。

 以後、仏教はさらに教義の解釈の違いなどによっていくつもの派に分かれ、自分たちを「~部」と呼んだので、「部派仏教(ぶはぶっきょう)」といい、西暦紀元前後頃には二十くらいの部派に分かれていただろうと言われる。これを「枝末分裂(しまつぶんれつ)」という。

 部派は二十ほどに分かれたとはいっても、基本的にはすべて専門の僧すなわち出家のための仏教で、ふつうの社会生活から離れて戒律を守り、仏典の勉強をし、瞑想・坐禅をするということだけで暮らせる、専門の僧侶でなければ覚りが開けない・救われないというものだったという。

 信徒たちは、僧から教えを受けたりお布施・寄付をしたりすることの功徳で、次の世界・来世でいい所に生まれ変わることができ、最善の場合、人間界の上の天界に生まれ変わることができるけれども、その先の覚りには到達できないことになっていた。

 仏教の神話的な世界観では、迷いの世界の六種類を「六道(ろくどう)」といい、下から言うと、まず最低最悪で苦しみばかりの地獄(じごく)、続いて何をしても満足できない餓鬼(がき)、食欲と性欲のことしか考えられない畜生(ちくしょう)、絶えず争っている阿修羅(あしゅら)、その上が人間界である。さらに上にはきわめて幸福で長寿の天界がある。しかし天界の寿命は長いといっても限界があり、やがて下の段階に転落し輪廻することになっている。

 そして、六道の上に、輪廻することのない覚りの世界が四種類あり、六道と合わせて十の世界で「十界(じゅっかい)」という。まず、ブッダの教えの声を聞いて覚った人々、つまり弟子たちの世界があり、「声聞(しょうもん)」という。その上に「独覚(どっかく)」ないし「縁覚(えんがく)」の世界がある。すなわち、縁起の理法はブッダが説いても説かなくてもあるものであるから、自らその縁起の理法を覚ることがあるとされ、独りで覚るという意味で「独覚」、縁起を覚るという意味で「縁覚」と呼ばれる。大乗仏教では、さらにその上に「菩薩(ぼさつ)」の世界があり、いちばん上に「仏」の世界がある。これで「十界」である。

 紀元一世紀前後、それ以前の部派仏教に対し、出家をして戒律を守り禅定し仏典の勉強をすることができる僧侶しか救われない・覚れないというのは、「自分しか乗れない小さな乗り物だ」と批判し、それに対して、「我々はみんなで救われ覚ることのできる大きな乗り物だ」と主張する仏教の派が現われたといわれる。

 

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