随煩悩7:慳(けん)――自分のものにこだわる心

2006年04月17日 | 心の教育

 煩悩の学びをしていると、「どこまで続くこのぬかるみ」という気分がしてきて、あまりうれしくないので、まずちょっとコーヒー・ブレイク的な話をしましょう。

 唯識の代表的な古典の一つ『摂大乗論』(漢訳からの現代語訳を私と青森公立大学の羽矢辰夫先生とでしています。『摂大乗論 現代語訳』コスモス・ライブラリー刊、星雲社発売)のいちばん初めに次のような言葉があります。

 この〔心の〕領域は、始めのない過去以来、すべての存在の依りどころであり、これがあるからこそ、生命の〔6つの〕種類(六道)があり、また涅槃を得るということもある。

 これまで見てきたように(さらにもうしばらく見ていくように)、私たち人間がほとんどみな、多様で深刻な煩悩を抱えていることは確かです。

 しかし、随煩悩があるということは、意識に根本煩悩があるということであり、ということはマナ識があって根本煩悩があるということであり、さらにそれはアーラヤ識があるということです。

 「この〔心の〕領域」とはアーラヤ識のことで、唯識によれば、人間はアーラヤ識を抱えているために六道という迷いの生を輪廻するのですが、アーラヤ識があるからこそ涅槃を得る=覚ることもできる、というのです。

 ということは、ちょっと逆説的(パラドキシカル)な言い方をすれば、いろいろな煩悩を抱えているということは、やりようによっては覚れるという潜在可能性を抱えているということでもあるのです。

 ですから、煩悩について詳しく学んでいても、落ち込む必要はありません。

 「そうか、これだけ煩悩がいっぱいだということは、覚りの可能性もいっぱいだということなんだ」と思いながら学んでください。

 ちょっと、気休めでした。


 さて、今日のテーマは「慳(けん)」です。

 いちおう物惜しみ・けちな心ということですが、これはより深くは「自分のものにこだわる心」と訳すことができます。

 私たちが、今自分に余っていても困っている人にあげようと思わなかったりするのは、まず人のことを自分とは分離した他人・別人と思っているからです。

 自分のものを自分の右手から左手に移すことなら、何のためらいもないでしょう。

 一体だと思っていないから、自分のものを人にあげたら自分のところから無くなると思って、けちな心が起こるのですね。

 あ、他人事みたいに言っているようですが、私も身に覚えがあるんですよ。

 それから、自分というものを実体である・あってほしいと思っているので、自分を守りたくなるんです。

 そして、実体としての物が実体としての自分を守ってくれると思うので、こだわり執着して、物惜しみをするわけです。

 つまり、貪りという根本煩悩から物惜しみという随煩悩が発生するのです。

 その奥には、自分を実体視し過剰に自己防衛的になる心である我癡や我愛が働いています。

 しかし、過剰な自己防衛は必然的に不安を伴います。

 不安は、いうまでもなく自分を深いところで煩わせ悩ませる煩悩です。

 さらに、けちなことをしていると人から嫌われるという意味でも、物惜しみは煩悩をもたらすでしょう。

 物惜しみはすればするほど、自分を守ることができて安心になるのではなく、かえって不安が募り、人から嫌われるだけなのですが、私たちはなかなかそのことに気づけないようです。

 安らかに、爽やかに生きたいのなら、物を自分だけで所有・保持することにこだわらず、コスモスのものをコスモスのそれぞれの部分(自他)のために、その時々にふさわしく、活かして用いる・活用する、という心がまえでいたほうがいいようです。

 「そんなことがこの私有制度を大前提にした資本主義社会の日本でできるのか? そんなことをしたら損をするのではないか?」という反論的疑問がありそうですね。

 「私たちが、ほんとうの意味で賢ければ、不可能ではありません。そうしたほうが、深い意味で得な人生を送れると思います」というのが、それに対する私の答えですが、詳しい話はこの授業の範囲を超えるので、興味のある方はよろしければ研究所の講座などにお出かけいただいて、ご質問いただけると幸いです。



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11 コメント

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私も... (venus_san)
2006-04-17 16:43:36
こんにちは、私も今日からこの

blogで少しずつ「心」を学んで

行きます。

近年「心の闇」「メンタルヘルス」という

言葉が多く出てきます。このblogの意義は

大きいと思います。

挨拶方々、お礼まで・・・

期待していまーす。
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歓迎です! (おかの)
2006-04-17 17:30:04


>venus_san さん こんにちは。よくいらっしゃいました。



ぜひ、ご一緒に学んでいきましょう。またコメントを下さい。
返信する
Unknown (タマちゃん4007)
2006-04-18 00:40:54
物惜しみ、そういう心がふつうという感じになっていますが、言われてみると確かに病気のような…これはいまの世の中だと病気だということにすごく気づきにくいですね。ウーン…
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おはようございます! (非思・量)
2006-04-18 06:45:12
自分ではまあまあ気前がいい方かな、なんて思っていますが、たまに出し惜しみしている自分に気が付いて、ハッとする時もあります。



「もったいない」ということも、我愛に基づいている場合は、不健全だということでしょうか。

「もったいない」で、自他を生かそうという場合は、自利利他の行になるわけですね。



余っている右手から、足りない左手に・・・、そんなふうに、あたかも自然に与えることができれば、素晴らしい世の中になりますね。
返信する
物欲のないアンナ (アンナ)
2006-04-18 07:58:37
アンナが嫌われる理由がわかりました。



物惜しみしないで、自他の必要なところに必要なものを出すのは当然だと思っているからです。自分の物にほとんどまったく執着がない、というのはいいのですが、人もそうに違いないと思ってしまっていて、すごく困っている人に対して、持ってる人が与えるのは当然のことだし、与えるほうもうれしいに違いないと思い込んでしまって、その人から勝手に・・・と思われることがありました。



なんで?必要もなく溜め込んで・・・有効利用しなくっちゃ、と思ったのですが・・・



あは。
返信する
あ、思い出しました! (りょう)
2006-04-18 15:19:58
道元禅師の正法眼蔵にこんな言葉があるのを思い出しました。



「愚人おもわくは、利他を先とすれば自らが利省かれぬべしと。しかにはあらざるなり。利行は一法なり。あまねく自他を利するなり。」



利行は一法。



しかも「三輪空寂」ですよね。



ありがとうございました!
返信する
りょうさんに質問 (YOKO)
2006-04-18 20:08:10
「三輪空寂」ってどういうことですか?
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三輪空寂 (りょう)
2006-04-18 22:51:53
>YOKOさん

こんばんは。浅学ですが、ご質問にお答えします。

「三輪空寂」とは、大乗仏教の布施行の核心と言ってもいいかもしれません。



布施とは、「与えること」。



「三輪空寂」とは、菩薩の行う布施行においては、与える者、与えられる物(教え)、受け取る者の三者の間にまったくこだわりがない、つまり「空(くう)」であることを表しているのだと思います。



それは、自他が一体であることへの徹底した目覚めから生じる布施行だと言えるのではないでしょうか。

以下、岡野先生の著書、『唯識と論理療法(佼成出版社)』の文章を引用しましょう。



大乗仏教―唯識的な布施は、あげる私と、もらうあなたと、あげ、もらうものと、この三つが空でなければならない。「三輪空寂の施」といいます。この三つの要素がみんな空であるような施でないと、大乗の施にはなりません。

 そのことを心に置いて、「私とあなたとはくべつはあるのだけれど、ほんとうは一体の宇宙。一体の宇宙の中であなたも私も命、人間をやっている」と。「そのすべてのものは宇宙の財産で、たまたまこっちには余っている、そっちには足りないとなったら、宇宙が宇宙のものを用立てるのは当たり前」ということになります。

以上、引用。





宇宙は一体だから、与える者にも、受け取るものにも、上下はない。

川の水が、高所から低所に流れるようなもの。川の水もこのとき、融通無碍のはたらきですよね。

まさに、このような自利利他の布施行が、「三輪空寂」と言えるのでないかと思います。



してあげてるという気持ちを超えた、三輪空寂の爽やかな布施行を目指して生きたいですね。



長々と駄文を失礼致しました。



先生、横レスしてすみません・・・。
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Unknown (おかの)
2006-04-19 10:52:01
>タマちゃん4007さん



 そうですね。今の世の中では、煩悩が当たり前なので、気づきにくいですね。



 でも、自覚症状がないと治療しないまま、気づいたら手遅れになりますから、早期発見早期治療がいいようです。



>非・思量さん



 自然に融通し合える世の中にしたいですね。真の福祉国家に。



>アンナさん



 「嫌われる理由がわかりました」とのこと、大発見ですね。



 コメントから拝察するに、アンナさんはそうとう無邪気な――マナ識があまり発達-肥大していない――方のようですね。



 「私がこう感じるのだから、人もこう感じるはず」というのは、無邪気な自己中心性ということになるかもしれません。



 まあ、発達段階などというのはおおまかな基準ですから、必ずマナ識が発達-肥大していなければならないということはないんでしょうが、理想的には比較的健全なマナ識を発達させてから、それを含んで超えて平等性智へというのがいいのだと思います。



 アンナさんはアンナさんらしいスタイルで行かれればいいと思いますけどね。



>YOKOさん、りょうさん



 こういう横レスはどうぞご自由にしてください。



 私のブログは、ふつうのブログとやや異なり、ネット受講生同士の交流の場という面があってもいいと思っていますので。

 
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ありがとうございました (YOKO)
2006-04-19 21:08:35
りょうさん



説明ありがとうございました。

三輪空寂という言葉は初めてだったのですが

とてもよくわかりました。



おかのせんせい



ありがとうございます。権威主義でないところがとてもいいです。



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