「東京マガジン」。吉祥寺総合病院閉院。
吉祥寺と言えば東京でもステータスの高いところとして地方の人間にも認識されているところだ。
何が起こっているのか。まず地価が高すぎて新住民が住めない。子どもも相続税等が高すぎて住み続けられない。
私の姉も吉祥寺の隣杉並に住んでいるが、高齢者ばかりだという。高齢者は車に乗れなくなり、駅前の商店街に行くには何かと不自由。仕方なく高齢者施設に入ろうとしても家が売れない。空洞化は地方都市ばかりではない。
自治体の出番である。住民の生活が成り立つようにするのが役所の仕事だ。
昨日はカルチャー講座で小川未明の「子供の時分の話」を講師の先生と共に考えた。
小川未明も宮沢賢治もいわゆる子供らしい子供ではなかった。未明は神官の一人息子で病弱だったので、母親からわんぱくを止められていた。しかも神官の息子なので特別扱いされていたような気配がある。宮沢賢治も長男で弟に対していばっていてもいいはずなのにそういうところは一切なかったという。
未明の童話も賢治の童話もわんぱく少年は出てこない。何か内省的な不思議な雰囲気を漂わせた主人公である。賢治の「風の又三郎」、未明の場合もどこからかふっとやってきた謎の少年だ。二人とも少女は登場しない。
「ヘンゼルとグレーテル」ヨーロッパが生きるにぎりぎりの時代の童話。
「ほんとは恐ろしいグリム童話」という本がある。
人類は飢饉とそれによる飢餓を何度も経験している。ヘンゼルとグレーテルは食べられなくなった両親が子供を捨て、自分たちだけ生き延びようとした物語だ。飢饉が去れば子供はまたできる。
きょうだいにとって魔法使いのおばあさんはきょうだいを救ってくれた余裕のあるおばあさん?「お菓子の家」は飢えたきょうだいの願望だ。
日本でも飢餓を描いたおとぎばなしがある。「御伽草子」はそんなはなしだ。芥川龍之介は「今昔物語」に材を取って小説にした。最も有名な『羅生門』。優雅な生活を送っていた貴族の御姫様も後ろ盾を失えば忽ち飢えに遭遇する。「源氏物語」にも描かれる。夕顔や末摘花がそれ。夕顔は男の心をそそる女性として描かれ、末摘花は身分は高いが父を失ってからは何のとりえもない女性として描かれる。しかし源氏はそんな女性でもかかわった女性の面倒は最後まで見る。「プレイボーイの鑑」。それもこれも源氏が財産家だからだ。
現代は女性もその気になれば働き、男に頼る必要はない。但し病気になったりすればそうはいかない。生活保護を恥ずかしがらず受ければいい。役所は自分の金ではないのだから事情を根掘り葉掘り聴くべきではない。「あんたの金じゃないでしょう。税金です」。