「ノース・カロライナへの道」シリーズ、そろそろ締めにかかろうかと思います。残りの日程の内容と感想をざっくりと(と思ったものの自分で読み返すのも大変なくらい長くなっちゃった)。
大学3日目。
この日は滞在中もっともよいお天気に恵まれました。午前中はフリータイムでキャンパス周辺でお土産を買ったり、キャンパスの美しい建物を見て回ったりして過ごしました。
初日にランチしたカフェの外観。大学のロゴカラーがスカイブルーで、大学街もブルー系で統一されててお洒落。
午後はF先生の博士課程学生のゼミを聴講。「これからD論書くぞ~!」な5人が各自の研究計画を発表する日に当たっていました。F先生の学生への指摘とアドバイスは、本質的、建設的、具体的と三拍子そろっていて、素晴らしいことこのうえなかったのですが、なかでも印象深かったのは、「自分の研究内容が研究資金をもらえるものなのかよく考えろ」という先生の発言。日本の社会科学系では、研究資金の獲得は(いまのところはまだ)“先生のお仕事”という位置づけなので(超一流学府では必ずしもそうではないようだけど)、その違いに驚く。文系の研究は理系と違って大きな機材や高価な薬品は不要だけれど、それでもある程度のお金はかかるわけで(文献収集、学会出張、通信費などなど)、それをどう工面するか(自腹を切れるかも含めて)が下っ端の悩みどころ。アメリカのようにいろいろな団体が研究助成金制度をもっているのは利点だけど、いっぽうで、資金の出所が研究結果へ影響するのかしないのかが気になるところ(ちなみに、この大学は州政府からの委託研究がかなりの割合を占めている。ので、まあ、ある程度の公平性は担保できているのかな)。
このほかに先生が強調していたのは、「興味の範囲が広くてあれもこれもってなるのは分かるけど、とにかくテーマを絞り込んで、どんなに小さくてもいいから誰もやっていないことを1つか2つ(これで十分)見つけて、そこを徹底的に突く」ことと「それが実施可能な調査なのかどうかもよく考える」ということ。これは、いままさに「あれもしたい、これもやりたい」とアタマのなかだけで壮大な計画をだだっぴろげちゃっている自分の肝に銘じたい。とまあ、この聴講で「こんな機会をもらえて、ドクターに進んでほんとよかった!これからもがんばる!」と心底おもったのでした。
大学のシンボルになっている丸屋根のあずまや。以前は井戸で、隣接する学生寮たちが使っていたそうです(現在は井戸は閉じてあって、水道から引いた水飲み場になっている)。
大学4日目。
今日は授業はなく、数名の教員・研究員と30分ずつお話させていただきました。彼女たち(全員女性。福祉領域に女性が多いのは日本と同じ。そして教授レベルになると逆転するのも日本と同じ、、、)からアメリカの児童福祉の調査研究についてお話を伺うことで、日本の児童福祉を見る新しい視点を得られたように思います。非常に示唆に富む発言や資料をいただくことができて感謝感謝でした。
これは、この日お会いした、翻訳書原著の分担執筆者であるG先生に記念にいただいた手作りのマグネット。貝のうえの黒い物体はサメの歯の化石(これはあとから貼り付けたのではなくて、みつけたときのままなのだそう)。
大学5日目(最終日)。
この日は2つの講義を見学(ここの1コマは日本の2コマ分に相当)。午前は、20年以上ワーカーとして働いた経験のあるJ先生のクラス。この講義では毎回クライエントとソーシャルワーカーを学生がロールプレイしながら、面接の過程を進行するというかたちをとっていて、非常に実践的(性的志向性も含めた人間の多様性を尊重した実践方法を徹底的にたたきこまれる)。なによりも、先生自身が“歩く実践の知”というかんじで、「ソーシャルワーカーは、クライエントに状況を変えられるんだっていう希望をもたらさないといけないの。人は変わらない、なんていう人間は、この業界から出てって!よ」と熱意を込めて語りかけていたことに強烈な印象を受けました。
午後は、午前の先生と打って変わってとっても柔らかい雰囲気の先生の授業(内容は思春期後半から30~40歳代にかけての発達課題、MSDの診断基準についての知識と、実践におけるそれらの活用方法)。教室に入って行ったら、スライドで「Welcome Suika!!」と迎えてくださって感激。このクラスは人数が多かった(20人ほど)からなのか何なのか、一部の学生同士のやりとりがアグレッシブで、「え、なんか仲でもわるいの?」とはらはらしてしまった。でもアメリカでは、そういうのをいちいち気にしてたらやっていけないんだろうなあ…。
いくつかの講義を聴講してもっとも感心したことは、学生の発言の多さと積極性。ソーシャルワークの修士に在籍しているここの学生たちにとって、修了することは生活がかかっているとはいえ(修士卒でなければ現場で高い地位に就くことはむずかしい)、それを差し引いて考えても、彼らの発言の頻度と内容は、他者の話を批判的に聞くという訓練を子どものころから受けてきたたまものであるところが大きいだろうと思いました(聞くことも上手いので、その反対の意見を表明することにも長けている)。とにかく、授業は先生から与えられるものではなく自分たちが作り上げるんだという姿勢が見て取れるし、そうした意識をもっているか否かで学習をとおして身につくものの重みが変わってくることは容易に想像できる。それでも、というかだからこそというのか、教える側には専門知識だけでなくひとりの人間としてのクオリティの高さが求められるなあということも実感しました。
キャンパス内になぜか梅の花。
わずか10日間で、予想していた以上に良い刺激を受け、視野を広げることができました。学業面でのもっとも大きな収穫は、ソーシャルワークという領域の発展は、アメリカという国と英語という言語が重なることによってもたらされたものなのだろうなということを体感できたこと。ソーシャルワークは、自分の意見を主張することがネガティブに評価されない文化を下敷きにしていて、現実はどうあれ、アメリカという国が、少なくともそうした文化を目指したくてやってきたからこそソーシャルワーカーが専門職たりえてきたのかなということに想像がおよぶようになった。このことは、わたしがこれから日本で児童福祉領域のソーシャルワークを学んでいくうえでとても重要な軸になるような気がしています。
キャンパス内のお気に入りの建物。いつかまた、ここを訪れることができるといいなあ。
この調査旅行を可能にしてくださった方々すべてに心から感謝しています。どうもありがとうございました。帰国してから1ヶ月以上経つけれど、見聞きしてきたことをアウトプットしていくにはまだまだ時間がかかりそう。こうしてまとめたものを読み返したり、土産話を聞いていただいたりしながら、自分のなかで熟成させて、研究の糧としていきたいと思います。
大学3日目。
この日は滞在中もっともよいお天気に恵まれました。午前中はフリータイムでキャンパス周辺でお土産を買ったり、キャンパスの美しい建物を見て回ったりして過ごしました。
初日にランチしたカフェの外観。大学のロゴカラーがスカイブルーで、大学街もブルー系で統一されててお洒落。
午後はF先生の博士課程学生のゼミを聴講。「これからD論書くぞ~!」な5人が各自の研究計画を発表する日に当たっていました。F先生の学生への指摘とアドバイスは、本質的、建設的、具体的と三拍子そろっていて、素晴らしいことこのうえなかったのですが、なかでも印象深かったのは、「自分の研究内容が研究資金をもらえるものなのかよく考えろ」という先生の発言。日本の社会科学系では、研究資金の獲得は(いまのところはまだ)“先生のお仕事”という位置づけなので(超一流学府では必ずしもそうではないようだけど)、その違いに驚く。文系の研究は理系と違って大きな機材や高価な薬品は不要だけれど、それでもある程度のお金はかかるわけで(文献収集、学会出張、通信費などなど)、それをどう工面するか(自腹を切れるかも含めて)が下っ端の悩みどころ。アメリカのようにいろいろな団体が研究助成金制度をもっているのは利点だけど、いっぽうで、資金の出所が研究結果へ影響するのかしないのかが気になるところ(ちなみに、この大学は州政府からの委託研究がかなりの割合を占めている。ので、まあ、ある程度の公平性は担保できているのかな)。
このほかに先生が強調していたのは、「興味の範囲が広くてあれもこれもってなるのは分かるけど、とにかくテーマを絞り込んで、どんなに小さくてもいいから誰もやっていないことを1つか2つ(これで十分)見つけて、そこを徹底的に突く」ことと「それが実施可能な調査なのかどうかもよく考える」ということ。これは、いままさに「あれもしたい、これもやりたい」とアタマのなかだけで壮大な計画をだだっぴろげちゃっている自分の肝に銘じたい。とまあ、この聴講で「こんな機会をもらえて、ドクターに進んでほんとよかった!これからもがんばる!」と心底おもったのでした。
大学のシンボルになっている丸屋根のあずまや。以前は井戸で、隣接する学生寮たちが使っていたそうです(現在は井戸は閉じてあって、水道から引いた水飲み場になっている)。
大学4日目。
今日は授業はなく、数名の教員・研究員と30分ずつお話させていただきました。彼女たち(全員女性。福祉領域に女性が多いのは日本と同じ。そして教授レベルになると逆転するのも日本と同じ、、、)からアメリカの児童福祉の調査研究についてお話を伺うことで、日本の児童福祉を見る新しい視点を得られたように思います。非常に示唆に富む発言や資料をいただくことができて感謝感謝でした。
これは、この日お会いした、翻訳書原著の分担執筆者であるG先生に記念にいただいた手作りのマグネット。貝のうえの黒い物体はサメの歯の化石(これはあとから貼り付けたのではなくて、みつけたときのままなのだそう)。
大学5日目(最終日)。
この日は2つの講義を見学(ここの1コマは日本の2コマ分に相当)。午前は、20年以上ワーカーとして働いた経験のあるJ先生のクラス。この講義では毎回クライエントとソーシャルワーカーを学生がロールプレイしながら、面接の過程を進行するというかたちをとっていて、非常に実践的(性的志向性も含めた人間の多様性を尊重した実践方法を徹底的にたたきこまれる)。なによりも、先生自身が“歩く実践の知”というかんじで、「ソーシャルワーカーは、クライエントに状況を変えられるんだっていう希望をもたらさないといけないの。人は変わらない、なんていう人間は、この業界から出てって!よ」と熱意を込めて語りかけていたことに強烈な印象を受けました。
午後は、午前の先生と打って変わってとっても柔らかい雰囲気の先生の授業(内容は思春期後半から30~40歳代にかけての発達課題、MSDの診断基準についての知識と、実践におけるそれらの活用方法)。教室に入って行ったら、スライドで「Welcome Suika!!」と迎えてくださって感激。このクラスは人数が多かった(20人ほど)からなのか何なのか、一部の学生同士のやりとりがアグレッシブで、「え、なんか仲でもわるいの?」とはらはらしてしまった。でもアメリカでは、そういうのをいちいち気にしてたらやっていけないんだろうなあ…。
いくつかの講義を聴講してもっとも感心したことは、学生の発言の多さと積極性。ソーシャルワークの修士に在籍しているここの学生たちにとって、修了することは生活がかかっているとはいえ(修士卒でなければ現場で高い地位に就くことはむずかしい)、それを差し引いて考えても、彼らの発言の頻度と内容は、他者の話を批判的に聞くという訓練を子どものころから受けてきたたまものであるところが大きいだろうと思いました(聞くことも上手いので、その反対の意見を表明することにも長けている)。とにかく、授業は先生から与えられるものではなく自分たちが作り上げるんだという姿勢が見て取れるし、そうした意識をもっているか否かで学習をとおして身につくものの重みが変わってくることは容易に想像できる。それでも、というかだからこそというのか、教える側には専門知識だけでなくひとりの人間としてのクオリティの高さが求められるなあということも実感しました。
キャンパス内になぜか梅の花。
わずか10日間で、予想していた以上に良い刺激を受け、視野を広げることができました。学業面でのもっとも大きな収穫は、ソーシャルワークという領域の発展は、アメリカという国と英語という言語が重なることによってもたらされたものなのだろうなということを体感できたこと。ソーシャルワークは、自分の意見を主張することがネガティブに評価されない文化を下敷きにしていて、現実はどうあれ、アメリカという国が、少なくともそうした文化を目指したくてやってきたからこそソーシャルワーカーが専門職たりえてきたのかなということに想像がおよぶようになった。このことは、わたしがこれから日本で児童福祉領域のソーシャルワークを学んでいくうえでとても重要な軸になるような気がしています。
キャンパス内のお気に入りの建物。いつかまた、ここを訪れることができるといいなあ。
この調査旅行を可能にしてくださった方々すべてに心から感謝しています。どうもありがとうございました。帰国してから1ヶ月以上経つけれど、見聞きしてきたことをアウトプットしていくにはまだまだ時間がかかりそう。こうしてまとめたものを読み返したり、土産話を聞いていただいたりしながら、自分のなかで熟成させて、研究の糧としていきたいと思います。