『道は、ひらける-タイ研究の五○年-』(石井米雄著、めこん)を読みました。
前にも紹介した、東南アジア研究の大家の半世紀をつづった自叙伝。
わたしのタイ語の手引きをしてくれた友達がこの先生の愛弟子で、「タイ語はもちろん、近隣のアジア言語がベラベラで、英語は当たり前のこと、フランス語、ラテン語などなどたくさんの言語を操る先生」と聞いていました。そして「ああ、ときどきいるよね、そういう"語学の天才"みたいなひと(=あまり苦労せずスラスラとことばを覚えられるタイプ)」と勝手に思っていました。
この本を読んで、そのイメージは覆されました。まさに"努力と忍耐のひと"。なみなみならぬ努力ができる、ということをいえば、ある種の天才なのかもしれない。
でも、この先生の言語学への興味やそこから広がる東南アジア研究の根底には、人間に対する尽きることの無い、愛ともいえるほどの深い関心が流れているのだなあ…と思いました。
そして、「あの先生は天才だからね、わたしたちとは違うよ」と勝手にそんなイメージを持っていた自分を恥ずかしい、と思いました。さらに自分の限界・可能性やひととの関係性を自分で決め付けてしまっていることって、多いなあ…とも。
帯にあることばがまた素晴らしい。
「まわり道でも いいじゃないか。」
さんざんまわり道して、やっと軌道に乗ったと思ったらまた行き詰ったような気持ちで過ごしてきたけれど、あんがい、道を阻んでいるのは自分自身なのかもしれない。
まわり道でも いいじゃないか、か。
前にも紹介した、東南アジア研究の大家の半世紀をつづった自叙伝。
わたしのタイ語の手引きをしてくれた友達がこの先生の愛弟子で、「タイ語はもちろん、近隣のアジア言語がベラベラで、英語は当たり前のこと、フランス語、ラテン語などなどたくさんの言語を操る先生」と聞いていました。そして「ああ、ときどきいるよね、そういう"語学の天才"みたいなひと(=あまり苦労せずスラスラとことばを覚えられるタイプ)」と勝手に思っていました。
この本を読んで、そのイメージは覆されました。まさに"努力と忍耐のひと"。なみなみならぬ努力ができる、ということをいえば、ある種の天才なのかもしれない。
でも、この先生の言語学への興味やそこから広がる東南アジア研究の根底には、人間に対する尽きることの無い、愛ともいえるほどの深い関心が流れているのだなあ…と思いました。
そして、「あの先生は天才だからね、わたしたちとは違うよ」と勝手にそんなイメージを持っていた自分を恥ずかしい、と思いました。さらに自分の限界・可能性やひととの関係性を自分で決め付けてしまっていることって、多いなあ…とも。
帯にあることばがまた素晴らしい。
「まわり道でも いいじゃないか。」
さんざんまわり道して、やっと軌道に乗ったと思ったらまた行き詰ったような気持ちで過ごしてきたけれど、あんがい、道を阻んでいるのは自分自身なのかもしれない。
まわり道でも いいじゃないか、か。