写生自在11 女性を詠む
向島水神八百松
水鶏なきかへしてほしくをんな居り 迦 南
迦南年譜の記述に「昭和17年5月13日、東京向島水神八百松に韮城・胡藤・木村氏に誘はれて水鶏を聞きに行く。」とあり製作年次が分かります。
また迦南を誘った3人のうち、韮城というという俳人について、虚子句集「五百句」の中にその名を見付けたので参考までに以下に記しておきます。
秋の蚊の居りてけはしき寺法かな 虚子
大正十三年 鮮満旅行の途次、十月十四日平壌にあり。華頂女学院に於ける俳句会に臨む。正蟀、帆影郎、沼蘋(しょうひん)女等来る。韮城(きゅうじょう)、橙黄子、雨意等同行。
八百松というのは向島水神の松林の中に江戸期からあった高級料亭のことで、迦南はそこに居合わせた芸者もしくは仲居のなかの一人に感興をおぼえたものと思います。そしてできたのが掲句です。
わたしはこの句をみる度に黑田清輝の洋画「湖畔」を思い起こします。
「湖畔」は芦ノ湖で納涼をしている女性を描いた絵ですが、人物の表情は浮世絵などの美人画と違って理知的な近代女性の眼差しをしています。絵のモデルは当時26歳の芸者だったといわれています。
迦南が八百松で見た芸者もこのような女性ではなかったかと想像します。背景になっている湖が迦南の場合は隅田川。
絵の趣としては「湖畔」には時鳥が似合い迦南の方は水鶏(くひな)です。「湖畔」は和歌的で貴族趣味。迦南の方は俳諧的で庶民趣味。そういう比較でこの句を鑑賞できると思います。
「迦南俳句を読む11」でわたしは「麦秋の医者を床屋に探しあて」という句について類句は句集中に1句もないと書きましたが、そのときは気が付かなかったのですが、この水鶏の句はその類句ですね。
両句に共通するのは1句に切れ目がなく散文的であるということ、こういう作り方をすると、句の印象を曖昧にすると言って初心の頃は注意されたものです。迦南のような超上級者になると、そこをきわどいところで残して佳句に仕上げてしまいます。
水鶏は今ではほとんど見られなくなっていますが、昔はどこにでも居た水鳥です。虚子編歳時記より季題「水鶏」を引用しておきます。
「夜鳴て旦に達す。声人の戸を敲くが如し」といはれる鳥である。「蓋し水辺にあつて、晨を告ぐ、故に水鶏と名く」と三才図会に書いてある。春来て秋去る候鳥で、水辺、沼沢の雑草中に夏を越す。叢中を潜行して滅多に飛ばないので姿を見ることは稀である。カタカタと連続して聞こえるのは緋水鶏といふ類で、六月頃の交尾期によく鳴くといふ。動物学上では水鶏は誤用として、秧鶏と書く。