文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

事実を無視し、中韓の言いなりになった愚行は許し難く、日本の政治や社会を深く傷つけた彼の罪は重いと断じざるを得ない。

2018年08月18日 20時29分57秒 | 日記

以下は前章の続きである。

日本史を知らぬ中韓のイエスマン 

三人目の悪人は、自民党総裁も務めた河野洋平元衆院議長である。

彼こそが田中氏が残した親中・親韓路線の後継者だった。 

彼の質が悪いところは、証拠がないと分かっていながら、官房長官時代に慰安婦の「強制連行」を認めたことだ。

「日本はかつて彼らにひどいことをした」という個人的な贖罪意識を持つのは自由だが、政府を率いる立場にありながら事実を無視し、中韓の言いなりになった愚行は許し難く、日本の政治や社会を深く傷つけた彼の罪は重いと断じざるを得ない。 

日本を「格下」と見る中華思想に今もどっぷりと浸かる大陸や半島とは、真の友好関係を構築することは難しく、彼らに対してはナイーブさを捨てて、毅然と振る舞わなければならないということは、古くは聖徳太子ら先人たちが教えてくれている。 

中曽根康弘元首相は、中国の胡耀邦元総書記と家族ぐるみで付き合っていたが、靖国神社への公式参拝を見送った理由について、「親日派」だった胡耀邦氏の立場が中国で危うくなったためとしている。

要するに、中国は友情や人脈を“脅しの道具”に使うような人たちであり、この点、日本人の友情観とは大きく異なり、彼らとの交渉は慎重にも慎重を期す必要がある。 

河野氏は日本を否定する終戦直後の“黒塗り教科書”で学んだ世代だからなのか、こうした中韓に関する常識を理解していないように感じる。

生涯学習が叫ばれているこの時代、日本史を学び直すことをお勧めしたい。 

これは余談だが、息子の河野太郎外相は幸い、父の負の遺産を引き継いでいないように見える。

北朝鮮問題では、安易な妥協には応じないとする安倍政権の立場を毅然と主張しており、実に頼もしい。

親のもとを離れた米国留学中によほど優れた友人、教授と交流を深めたのではないだろうか。

彼は掘り出し物かもしれない。 

ここまでお読みになって、日本の左傾化を後押ししたのは戦後の自民党政治であったことはお分かりいただけただろうか。

土井氏も河野氏も田中氏が産み落としたと言っても大げさではない。

私が田中氏らの台頭と同時に政治取材への興味を失ったのは、ある意味において必然であった。


彼の質が悪いところは、証拠がないと分かっていながら、官房長官時代に慰安婦の「強制連行」を認めたことだ。

2018年08月18日 20時29分06秒 | 日記

以下は前章の続きである。

日本史を知らぬ中韓のイエスマン 

三人目の悪人は、自民党総裁も務めた河野洋平元衆院議長である。

彼こそが田中氏が残した親中・親韓路線の後継者だった。 

彼の質が悪いところは、証拠がないと分かっていながら、官房長官時代に慰安婦の「強制連行」を認めたことだ。

「日本はかつて彼らにひどいことをした」という個人的な贖罪意識を持つのは自由だが、政府を率いる立場にありながら事実を無視し、中韓の言いなりになった愚行は許し難く、日本の政治や社会を深く傷つけた彼の罪は重いと断じざるを得ない。 

日本を「格下」と見る中華思想に今もどっぷりと浸かる大陸や半島とは、真の友好関係を構築することは難しく、彼らに対してはナイーブさを捨てて、毅然と振る舞わなければならないということは、古くは聖徳太子ら先人たちが教えてくれている。 

中曽根康弘元首相は、中国の胡耀邦元総書記と家族ぐるみで付き合っていたが、靖国神社への公式参拝を見送った理由について、「親日派」だった胡耀邦氏の立場が中国で危うくなったためとしている。

要するに、中国は友情や人脈を“脅しの道具”に使うような人たちであり、この点、日本人の友情観とは大きく異なり、彼らとの交渉は慎重にも慎重を期す必要がある。 

河野氏は日本を否定する終戦直後の“黒塗り教科書”で学んだ世代だからなのか、こうした中韓に関する常識を理解していないように感じる。

生涯学習が叫ばれているこの時代、日本史を学び直すことをお勧めしたい。 

これは余談だが、息子の河野太郎外相は幸い、父の負の遺産を引き継いでいないように見える。

北朝鮮問題では、安易な妥協には応じないとする安倍政権の立場を毅然と主張しており、実に頼もしい。

親のもとを離れた米国留学中によほど優れた友人、教授と交流を深めたのではないだろうか。

彼は掘り出し物かもしれない。 

ここまでお読みになって、日本の左傾化を後押ししたのは戦後の自民党政治であったことはお分かりいただけただろうか。

土井氏も河野氏も田中氏が産み落としたと言っても大げさではない。

私が田中氏らの台頭と同時に政治取材への興味を失ったのは、ある意味において必然であった。


日本史を知らぬ中韓のイエスマン 三人目の悪人は、自民党総裁も務めた河野洋平元衆院議長である 

2018年08月18日 20時28分00秒 | 日記

以下は前章の続きである。

日本史を知らぬ中韓のイエスマン 

三人目の悪人は、自民党総裁も務めた河野洋平元衆院議長である。

彼こそが田中氏が残した親中・親韓路線の後継者だった。 

彼の質が悪いところは、証拠がないと分かっていながら、官房長官時代に慰安婦の「強制連行」を認めたことだ。

「日本はかつて彼らにひどいことをした」という個人的な贖罪意識を持つのは自由だが、政府を率いる立場にありながら事実を無視し、中韓の言いなりになった愚行は許し難く、日本の政治や社会を深く傷つけた彼の罪は重いと断じざるを得ない。 

日本を「格下」と見る中華思想に今もどっぷりと浸かる大陸や半島とは、真の友好関係を構築することは難しく、彼らに対してはナイーブさを捨てて、毅然と振る舞わなければならないということは、古くは聖徳太子ら先人たちが教えてくれている。 

中曽根康弘元首相は、中国の胡耀邦元総書記と家族ぐるみで付き合っていたが、靖国神社への公式参拝を見送った理由について、「親日派」だった胡耀邦氏の立場が中国で危うくなったためとしている。

要するに、中国は友情や人脈を“脅しの道具”に使うような人たちであり、この点、日本人の友情観とは大きく異なり、彼らとの交渉は慎重にも慎重を期す必要がある。 

河野氏は日本を否定する終戦直後の“黒塗り教科書”で学んだ世代だからなのか、こうした中韓に関する常識を理解していないように感じる。

生涯学習が叫ばれているこの時代、日本史を学び直すことをお勧めしたい。 

これは余談だが、息子の河野太郎外相は幸い、父の負の遺産を引き継いでいないように見える。

北朝鮮問題では、安易な妥協には応じないとする安倍政権の立場を毅然と主張しており、実に頼もしい。

親のもとを離れた米国留学中によほど優れた友人、教授と交流を深めたのではないだろうか。

彼は掘り出し物かもしれない。 

ここまでお読みになって、日本の左傾化を後押ししたのは戦後の自民党政治であったことはお分かりいただけただろうか。

土井氏も河野氏も田中氏が産み落としたと言っても大げさではない。

私が田中氏らの台頭と同時に政治取材への興味を失ったのは、ある意味において必然であった。


野中氏はまさに「保守の皮を被った革新」、“本物の偽物の保守”であった。 

2018年08月18日 20時25分21秒 | 日記

以下は前章の続きである。

「護憲」が全てだったマドンナ 

二人目に挙げる悪人は元社会党委員長で、女性初の衆院議長を務めた土井たか子氏だ。

私には野党を担当していた時期があり、彼女の記者会見には何度も出席したが、野党第一党の党首の口から国家観が語られることはなかった。 

土井氏の唯一無二の政治目標は憲法改正の阻止。

つまり、国会で改憲勢力に「三分の二」をとらせないことが最重要課題だった。

その意志は福島瑞穂氏や辻元清美氏ら後輩の左派議員に受け継がれていった。

彼女たちが参加した民主党政権は、安全保障問題や大震災への対応などで日本を混乱に陥れたが、それもこれも、土井氏と彼女のチルドレンが国家観を持っていなかったが故の失態であった。

ただし、私は混乱の責任は土井氏ら以上に自民党にあると強調し たい。

田中氏が確立した自民党の金権政治に対する世間の批判がマドンナ旋風を巻き起こし、土井氏ら左派の躍進を後押ししたからだ。

権力は必ず腐敗するため、本来、責任政党間の政権交代は歓迎すべきことである。

国民から政権交代の期待を奪った責めは、責任政党に成長できなかった民主党だけでなく、彼らを生んだ自民党も負うべきであろう。  

振り返れば、土井氏が声高に「改憲反対」と叫ぶ機会はそれほど頻繁ではなかった。

自民党から改憲を求める声が上がってこないため、護憲派の彼女は「寝た子を起こす必要はない。黙っていた方が得だ」と考えていたのだろう。

事実、当時の自民党には金権一辺倒で改憲に無関心な連中や、共産主義者のような考え方を持つ面々が紛れ込んでいた。 

その象徴が幹事長まで登り詰めた野中広務氏である。

*最近のNHKが、この野中広務を崇め奉ってしばしば言及する事もNHKの報道部を支配している大越や有馬などの類の連中の本質を現しているのである*

私は、首相官邸に近い路上から料亭の玄関に向かって、卑屈な笑顔を浮かべながら、深々と頭を下げる野中氏の姿を見たことがある。

好奇心を刺激された私か「いったい誰がいるんだろう」と佇んでいたところ、店内から出てきたのは社会党を率いた村山富市元首相だった。

野中氏はまさに「保守の皮を被った革新」、“本物の偽物の保守”であった。 

村山氏は、首相になった直後にそれまでの見解をひっくり返して自衛隊を合憲だと認め、社会党の主張など、どうでもいいことを自ら証明した。

かくして土井氏が体現した国家観なき政党は、国民の信を失い、消滅していった。


二人目に挙げる悪人は元社会党委員長で、女性初の衆院議長を務めた土井たか子氏だ。

2018年08月18日 20時24分05秒 | 日記

以下は前章の続きである。

「護憲」が全てだったマドンナ 

二人目に挙げる悪人は元社会党委員長で、女性初の衆院議長を務めた土井たか子氏だ。

私には野党を担当していた時期があり、彼女の記者会見には何度も出席したが、野党第一党の党首の口から国家観が語られることはなかった。 

土井氏の唯一無二の政治目標は憲法改正の阻止。

つまり、国会で改憲勢力に「三分の二」をとらせないことが最重要課題だった。

その意志は福島瑞穂氏や辻元清美氏ら後輩の左派議員に受け継がれていった。

彼女たちが参加した民主党政権は、安全保障問題や大震災への対応などで日本を混乱に陥れたが、それもこれも、土井氏と彼女のチルドレンが国家観を持っていなかったが故の失態であった。

ただし、私は混乱の責任は土井氏ら以上に自民党にあると強調し たい。

田中氏が確立した自民党の金権政治に対する世間の批判がマドンナ旋風を巻き起こし、土井氏ら左派の躍進を後押ししたからだ。

権力は必ず腐敗するため、本来、責任政党間の政権交代は歓迎すべきことである。

国民から政権交代の期待を奪った責めは、責任政党に成長できなかった民主党だけでなく、彼らを生んだ自民党も負うべきであろう。  

振り返れば、土井氏が声高に「改憲反対」と叫ぶ機会はそれほど頻繁ではなかった。

自民党から改憲を求める声が上がってこないため、護憲派の彼女は「寝た子を起こす必要はない。黙っていた方が得だ」と考えていたのだろう。

事実、当時の自民党には金権一辺倒で改憲に無関心な連中や、共産主義者のような考え方を持つ面々が紛れ込んでいた。 

その象徴が幹事長まで登り詰めた野中広務氏である。

*最近のNHKが、この野中広務を崇め奉ってしばしば言及する事もNHKの報道部を支配している大越や有馬などの類の連中の本質を現しているのである*

私は、首相官邸に近い路上から料亭の玄関に向かって、卑屈な笑顔を浮かべながら、深々と頭を下げる野中氏の姿を見たことがある。

好奇心を刺激された私か「いったい誰がいるんだろう」と佇んでいたところ、店内から出てきたのは社会党を率いた村山富市元首相だった。

野中氏はまさに「保守の皮を被った革新」、“本物の偽物の保守”であった。 

村山氏は、首相になった直後にそれまでの見解をひっくり返して自衛隊を合憲だと認め、社会党の主張など、どうでもいいことを自ら証明した。

かくして土井氏が体現した国家観なき政党は、国民の信を失い、消滅していった。


私が選ぶ、戦後リベラル砦の「三悪人」、田中角栄、土井たか子、河野洋平、国家観なき、この政治家たちを生んだもの、

2018年08月18日 20時20分52秒 | 日記

以下は月刊誌正論今月号(840円)に、私が選ぶ、戦後リベラル砦の「三悪人」、田中角栄、土井たか子、河野洋平、国家観なき、この政治家たちを生んだもの、と題して掲載された政治評論家屋山太郎氏の論文からである。

 

見出し以外の文中強調は私。

日本に金権政治を根付かせたことにとどまらず、憲法改正という保守派の夢をぶち壊し、護憲派や親中派を勢いづけた。

こういう意味において、私は田中角栄元首相こそがリベラル砦における最大の悪人だったと強調したい。

私は、自民党幹事長時代に彼の“番記者”を務めたことがあり、冒頭、その金権ぶりを示すエピソードを二つほど紹介したい。

カネで崇高な政治家像を一掃 

日本地図に道路やら橋やらを書き込んでいた田中氏に「なにをやっているんですか?」と尋ねたところ、「ここに新幹線を通すんだよ。誰にも言うなよ」と口止めされたことがあった。

新幹線はその図面通りに整備され、それ以降、私は彼を政治家ではなく、「土建屋」として冷めた目で観察するようになった。 

また、都内のホテルで行われたパーティーでは、花束を渡すために壇上に上がった若い女性に対し、田中氏がその場で財布から抜き出した1万円札を無理に手渡す場面を目の当たりにした。

私は田中氏に「あのお嬢さん、本気で嫌がっていましたよ。公衆の面前で恥ずかしい思いをしたんじゃないですか?」と伝えたが、彼は「バカ!金もらって喜ばないやつはいないよ」と、聞く耳を持たなかった。

これもまた、田中角栄という人間の本質を的確に示す答えであった。 

この“土建屋政治家”は、カネの力を駆使して日本の政治風土を根底から変えた。 

当時の日本は中選挙区の時代で、自民党の議員同士が同じ選挙区内で当落をかけた熾烈な戦いを繰り広げていた。

田中氏は、党内に気に入らない人物がいると、資金力をバックに別の候補者をその選挙区に送り込み、足を引っ張ることを厭わなかった。

このようにして、永田町では落選を恐れ、金権政治にひれ伏す政治家が増えていった。 

私は、田中氏が台頭する前の永田町がカネと無縁だったと主張するつもりはない。

ただ、「金に頼ることは本来、恥ずかしいことなのだ」という価値観は共有されていて、政治家は遠慮気味に札束に手を伸ばしていた。 

田中氏の登場後、政治家からは「武士は食わねど高楊枝」の要素が完全に消え、政界は金が全ての“素っ裸の資本主義”の時代を迎えた。

それ以前の政治家はそれなりに人格を備え、羽織袴(精神的な崇高さ)を着ていたが、ふんどし一丁どころか、真っ裸で登場した田中氏が彼らを一掃した。

石原慎太郎は近著で「角栄は偉かった」と振り返っているが、昔は「あれほど徳のねえ奴はいない」と田中批判を展開していたことを私は覚えている。 

金権一辺倒の田中氏には「思想」がなかった。

なかったが故に、保守派がその台頭を警戒していた中国に嬉々として接近できたし、憲法改正も無視できた。

不幸にも彼が残したその負の遺産は自民党に脈々と受け継がれていく。

日本で親中派と護憲派が幅を利かせるきっかけをつくった田中氏の罪は重いと評さざるを得ない。


早野君に「政治面にコメントを紹介して『としている』という記事があるけれど、そんな日本語はない。誤魔化すなよ」と言ったことがある

2018年08月18日 20時17分56秒 | 日記

以下は前章の続きである。

本多勝一先輩は「アカイアカイ朝日」の象徴的存在だが、先輩のエスキモー、ニューギニア高地人、砂漠の民ベドウィンとの生活体験ルポ三部作は、不朽の名作である。 

しかしベトナム戦争取材後は共産主義イデオロギーにかぶれたようで、ついてゆけなかった。

ある時期から記事に付ける注が増えた。

まるで「岩波古典文学大系」のような異様なまでの注の多用には、うんざりした。 

早野透君という政治部の編集委員から編集主幹に昇りつめた後輩のことは、書いておきたい。

日本語が間違っているからである。 

早野君に「政治面にコメントを紹介して『としている』という記事があるけれど、そんな日本語はない。誤魔化すなよ」と言ったことがある。

すると早野君は、「川村さん、政治の世界には『としている』としか書けない状況があるんですよ」と、経済部編集委員に同意を求めるように言ったので、「どういう状況か教えてよ」と、何回も頼んだ。 

前世紀末のことである。 

しかし、今に至るも回答をくれない。

私は、どこの言語にも訳せそうにない、新聞記事にしかない誤魔化し表現を使っているかぎり、新聞に対する読者の信頼はもどらないだろうと思っている。


本多勝一先輩は「アカイアカイ朝日」の象徴的存在だが、

2018年08月18日 20時15分58秒 | 日記

以下は前章の続きである。

本多勝一先輩は「アカイアカイ朝日」の象徴的存在だが、先輩のエスキモー、ニューギニア高地人、砂漠の民ベドウィンとの生活体験ルポ三部作は、不朽の名作である。 

しかしベトナム戦争取材後は共産主義イデオロギーにかぶれたようで、ついてゆけなかった。

ある時期から記事に付ける注が増えた。

まるで「岩波古典文学大系」のような異様なまでの注の多用には、うんざりした。 

早野透君という政治部の編集委員から編集主幹に昇りつめた後輩のことは、書いておきたい。

日本語が間違っているからである。 

早野君に「政治面にコメントを紹介して『としている』という記事があるけれど、そんな日本語はない。誤魔化すなよ」と言ったことがある。

すると早野君は、「川村さん、政治の世界には『としている』としか書けない状況があるんですよ」と、経済部編集委員に同意を求めるように言ったので、「どういう状況か教えてよ」と、何回も頼んだ。 

前世紀末のことである。 

しかし、今に至るも回答をくれない。

私は、どこの言語にも訳せそうにない、新聞記事にしかない誤魔化し表現を使っているかぎり、新聞に対する読者の信頼はもどらないだろうと思っている。


しかしベトナム戦争取材後は共産主義イデオロギーにかぶれたようで、ついてゆけなかった。

2018年08月18日 20時15分23秒 | 日記

以下は前章の続きである。

本多勝一先輩は「アカイアカイ朝日」の象徴的存在だが、先輩のエスキモー、ニューギニア高地人、砂漠の民ベドウィンとの生活体験ルポ三部作は、不朽の名作である。 

しかしベトナム戦争取材後は共産主義イデオロギーにかぶれたようで、ついてゆけなかった。

ある時期から記事に付ける注が増えた。

まるで「岩波古典文学大系」のような異様なまでの注の多用には、うんざりした。 

早野透君という政治部の編集委員から編集主幹に昇りつめた後輩のことは、書いておきたい。

日本語が間違っているからである。 

早野君に「政治面にコメントを紹介して『としている』という記事があるけれど、そんな日本語はない。誤魔化すなよ」と言ったことがある。

すると早野君は、「川村さん、政治の世界には『としている』としか書けない状況があるんですよ」と、経済部編集委員に同意を求めるように言ったので、「どういう状況か教えてよ」と、何回も頼んだ。 

前世紀末のことである。 

しかし、今に至るも回答をくれない。

私は、どこの言語にも訳せそうにない、新聞記事にしかない誤魔化し表現を使っているかぎり、新聞に対する読者の信頼はもどらないだろうと思っている。


日本が平和でいられたのは憲法九条のおかげで、米軍の威光は関係ないと、本気で思っていたのだろうか? 

2018年08月18日 20時13分14秒 | 日記

以下は前章の続きである。

文が雑になった新聞記者たち 

副編集長から編集長になってからもこんな話をするので、相手は気を許すらしい。

会う人ごとに朝日批判を聞かされた。

アンチ朝日に「朝日新聞は左翼偏向が過ぎる」と責められ、サンドバッグ状態だったこともある。

しかし、批判は激励でもあるのだ。 

そんな経験をして16年ぶりに新聞の世界にもどり、編集委員になって同僚や後輩の話を聞いていると、偏狭な記者が増えている気がした。

週刊誌の記者に比べると、世間が狭い。

それより、言葉の使い方が無神経で、書くことが雑になっているのが気になった。 

かつて「進歩的文化人」とか「革新」と称した勢力が「リベラル」と改称したらしいこともわかってきた。 

2013年にマスコミ業界誌に朝日の紙面批判をして朝日の幹部の逆鱗に触れ、OBの資格剥奪、出入禁止処分を受けてからは、紙面を読む目が前にも増して厳しくなった。

中には読者のことなど頭になく、原稿と言うよりもメモのようなものがある。

「こんなものに金が払えるか。新聞代を返せ」と言いたくなるものが珍しくない。

総じて、記事の質が劣化し、文章と呼べないものが増えている。 

ここまではいつも思っていることなので、スラスラと書いてきた。

しかし、本誌編集部からは、朝日の三悪文家を書けと注文されている。

編集部の担当者からは、筑紫哲也先輩の名前が出た。 

実は、先輩が編集長だった『朝日ジャーナル』編集部と『週刊朝日』編集部は同じフロアで隣り合わせだった。

先輩は席を空けることが多いことで知られていた。

先輩のポケベルが机の中で虚しく鳴っているのは、私も何度か聞いたことがある。 

先輩はテレビ朝日が「教育テレビ」と言った頃、「こちらデスク」という夕方の番組でキャスターをした時期がある。

どんな時でも感情を表に出さず穏やかな顔で、いつも颯爽としているので、見惚れていた。 

先輩はテレビで有名になってから、朝日社員の身分で某候補の選挙カーで応援演説をしたことがあったが、あれはまずかった。

ジャーナリストが活動家になるのは、決して許されることではないからである。 

白状すると、先輩は活字ではなく電波の人だったと思っている。

申し訳ないが、お書きになったものを読んだことがない。

しかし、リベラル派ジャーナリストとしてTBS系列のニュース番組のメイン・キャスターになってからの先輩のコメントには、正直、首をかしげることが多かった。 

日本が平和でいられたのは憲法九条のおかげで、米軍の威光は関係ないと、本気で思っていたのだろうか? 

日本の安全保障はどうする気でいたのだろう。

先輩のお別れの会で、私は遺影に手を合わせながら、そんなことばかり考えていた。 


先輩はテレビで有名になってから、朝日社員の身分で某候補の選挙カーで応援演説をしたことがあったが、あれはまずかった。

2018年08月18日 20時12分09秒 | 日記

以下は前章の続きである。

文が雑になった新聞記者たち 

副編集長から編集長になってからもこんな話をするので、相手は気を許すらしい。

会う人ごとに朝日批判を聞かされた。

アンチ朝日に「朝日新聞は左翼偏向が過ぎる」と責められ、サンドバッグ状態だったこともある。

しかし、批判は激励でもあるのだ。 

そんな経験をして16年ぶりに新聞の世界にもどり、編集委員になって同僚や後輩の話を聞いていると、偏狭な記者が増えている気がした。

週刊誌の記者に比べると、世間が狭い。

それより、言葉の使い方が無神経で、書くことが雑になっているのが気になった。 

かつて「進歩的文化人」とか「革新」と称した勢力が「リベラル」と改称したらしいこともわかってきた。 

2013年にマスコミ業界誌に朝日の紙面批判をして朝日の幹部の逆鱗に触れ、OBの資格剥奪、出入禁止処分を受けてからは、紙面を読む目が前にも増して厳しくなった。

中には読者のことなど頭になく、原稿と言うよりもメモのようなものがある。

「こんなものに金が払えるか。新聞代を返せ」と言いたくなるものが珍しくない。

総じて、記事の質が劣化し、文章と呼べないものが増えている。 

ここまではいつも思っていることなので、スラスラと書いてきた。

しかし、本誌編集部からは、朝日の三悪文家を書けと注文されている。

編集部の担当者からは、筑紫哲也先輩の名前が出た。 

実は、先輩が編集長だった『朝日ジャーナル』編集部と『週刊朝日』編集部は同じフロアで隣り合わせだった。

先輩は席を空けることが多いことで知られていた。

先輩のポケベルが机の中で虚しく鳴っているのは、私も何度か聞いたことがある。 

先輩はテレビ朝日が「教育テレビ」と言った頃、「こちらデスク」という夕方の番組でキャスターをした時期がある。

どんな時でも感情を表に出さず穏やかな顔で、いつも颯爽としているので、見惚れていた。 

先輩はテレビで有名になってから、朝日社員の身分で某候補の選挙カーで応援演説をしたことがあったが、あれはまずかった。

ジャーナリストが活動家になるのは、決して許されることではないからである。 

白状すると、先輩は活字ではなく電波の人だったと思っている。

申し訳ないが、お書きになったものを読んだことがない。

しかし、リベラル派ジャーナリストとしてTBS系列のニュース番組のメイン・キャスターになってからの先輩のコメントには、正直、首をかしげることが多かった。 

日本が平和でいられたのは憲法九条のおかげで、米軍の威光は関係ないと、本気で思っていたのだろうか? 

日本の安全保障はどうする気でいたのだろう。

先輩のお別れの会で、私は遺影に手を合わせながら、そんなことばかり考えていた。 


TBS系列のニュース番組のメイン・キャスターになってからの先輩のコメントには、正直、首をかしげることが多かった

2018年08月18日 20時11分14秒 | 日記

以下は前章の続きである。

文が雑になった新聞記者たち 

副編集長から編集長になってからもこんな話をするので、相手は気を許すらしい。

会う人ごとに朝日批判を聞かされた。

アンチ朝日に「朝日新聞は左翼偏向が過ぎる」と責められ、サンドバッグ状態だったこともある。

しかし、批判は激励でもあるのだ。 

そんな経験をして16年ぶりに新聞の世界にもどり、編集委員になって同僚や後輩の話を聞いていると、偏狭な記者が増えている気がした。

週刊誌の記者に比べると、世間が狭い。

それより、言葉の使い方が無神経で、書くことが雑になっているのが気になった。 

かつて「進歩的文化人」とか「革新」と称した勢力が「リベラル」と改称したらしいこともわかってきた。 

2013年にマスコミ業界誌に朝日の紙面批判をして朝日の幹部の逆鱗に触れ、OBの資格剥奪、出入禁止処分を受けてからは、紙面を読む目が前にも増して厳しくなった。

中には読者のことなど頭になく、原稿と言うよりもメモのようなものがある。

「こんなものに金が払えるか。新聞代を返せ」と言いたくなるものが珍しくない。

総じて、記事の質が劣化し、文章と呼べないものが増えている。 

ここまではいつも思っていることなので、スラスラと書いてきた。

しかし、本誌編集部からは、朝日の三悪文家を書けと注文されている。

編集部の担当者からは、筑紫哲也先輩の名前が出た。 

実は、先輩が編集長だった『朝日ジャーナル』編集部と『週刊朝日』編集部は同じフロアで隣り合わせだった。

先輩は席を空けることが多いことで知られていた。

先輩のポケベルが机の中で虚しく鳴っているのは、私も何度か聞いたことがある。 

先輩はテレビ朝日が「教育テレビ」と言った頃、「こちらデスク」という夕方の番組でキャスターをした時期がある。

どんな時でも感情を表に出さず穏やかな顔で、いつも颯爽としているので、見惚れていた。 

先輩はテレビで有名になってから、朝日社員の身分で某候補の選挙カーで応援演説をしたことがあったが、あれはまずかった。

ジャーナリストが活動家になるのは、決して許されることではないからである。 

白状すると、先輩は活字ではなく電波の人だったと思っている。

申し訳ないが、お書きになったものを読んだことがない。

しかし、リベラル派ジャーナリストとしてTBS系列のニュース番組のメイン・キャスターになってからの先輩のコメントには、正直、首をかしげることが多かった。 

日本が平和でいられたのは憲法九条のおかげで、米軍の威光は関係ないと、本気で思っていたのだろうか? 

日本の安全保障はどうする気でいたのだろう。

先輩のお別れの会で、私は遺影に手を合わせながら、そんなことばかり考えていた。 


本誌編集部からは、朝日の三悪文家を書けと注文されている。編集部の担当者からは、筑紫哲也先輩の名前が出た。

2018年08月18日 20時05分28秒 | 日記

以下は前章の続きである。

文が雑になった新聞記者たち 

副編集長から編集長になってからもこんな話をするので、相手は気を許すらしい。

会う人ごとに朝日批判を聞かされた。

アンチ朝日に「朝日新聞は左翼偏向が過ぎる」と責められ、サンドバッグ状態だったこともある。

しかし、批判は激励でもあるのだ。 

そんな経験をして16年ぶりに新聞の世界にもどり、編集委員になって同僚や後輩の話を聞いていると、偏狭な記者が増えている気がした。

週刊誌の記者に比べると、世間が狭い。

それより、言葉の使い方が無神経で、書くことが雑になっているのが気になった。 

かつて「進歩的文化人」とか「革新」と称した勢力が「リベラル」と改称したらしいこともわかってきた。 

2013年にマスコミ業界誌に朝日の紙面批判をして朝日の幹部の逆鱗に触れ、OBの資格剥奪、出入禁止処分を受けてからは、紙面を読む目が前にも増して厳しくなった。

中には読者のことなど頭になく、原稿と言うよりもメモのようなものがある。

「こんなものに金が払えるか。新聞代を返せ」と言いたくなるものが珍しくない。

総じて、記事の質が劣化し、文章と呼べないものが増えている。 

ここまではいつも思っていることなので、スラスラと書いてきた。

しかし、本誌編集部からは、朝日の三悪文家を書けと注文されている。

編集部の担当者からは、筑紫哲也先輩の名前が出た。 

実は、先輩が編集長だった『朝日ジャーナル』編集部と『週刊朝日』編集部は同じフロアで隣り合わせだった。

先輩は席を空けることが多いことで知られていた。

先輩のポケベルが机の中で虚しく鳴っているのは、私も何度か聞いたことがある。 

先輩はテレビ朝日が「教育テレビ」と言った頃、「こちらデスク」という夕方の番組でキャスターをした時期がある。

どんな時でも感情を表に出さず穏やかな顔で、いつも颯爽としているので、見惚れていた。 

先輩はテレビで有名になってから、朝日社員の身分で某候補の選挙カーで応援演説をしたことがあったが、あれはまずかった。

ジャーナリストが活動家になるのは、決して許されることではないからである。 

白状すると、先輩は活字ではなく電波の人だったと思っている。

申し訳ないが、お書きになったものを読んだことがない。

しかし、リベラル派ジャーナリストとしてTBS系列のニュース番組のメインーキャスターになってからの先輩のコメントには、正直、首をかしげることが多かった。 

日本が平和でいられたのは憲法九条のおかげで、米軍の威光は関係ないと、本気で思っていたのだろうか? 

日本の安全保障はどうする気でいたのだろう。

先輩のお別れの会で、私は遺影に手を合わせながら、そんなことばかり考えていた。 


かつて「進歩的文化人」とか「革新」と称した勢力が「リベラル」と改称したらしいこともわかってきた。

2018年08月18日 20時04分00秒 | 日記

以下は前章の続きである。

文が雑になった新聞記者たち 

副編集長から編集長になってからもこんな話をするので、相手は気を許すらしい。

会う人ごとに朝日批判を聞かされた。

アンチ朝日に「朝日新聞は左翼偏向が過ぎる」と責められ、サンドバッグ状態だったこともある。

しかし、批判は激励でもあるのだ。 

そんな経験をして16年ぶりに新聞の世界にもどり、編集委員になって同僚や後輩の話を聞いていると、偏狭な記者が増えている気がした。

週刊誌の記者に比べると、世間が狭い。

それより、言葉の使い方が無神経で、書くことが雑になっているのが気になった。 

かつて「進歩的文化人」とか「革新」と称した勢力が「リベラル」と改称したらしいこともわかってきた。 

2013年にマスコミ業界誌に朝日の紙面批判をして朝日の幹部の逆鱗に触れ、OBの資格剥奪、出入禁止処分を受けてからは、紙面を読む目が前にも増して厳しくなった。

中には読者のことなど頭になく、原稿と言うよりもメモのようなものがある。

「こんなものに金が払えるか。新聞代を返せ」と言いたくなるものが珍しくない。

総じて、記事の質が劣化し、文章と呼べないものが増えている。 

ここまではいつも思っていることなので、スラスラと書いてきた。

しかし、本誌編集部からは、朝日の三悪文家を書けと注文されている。

編集部の担当者からは、筑紫哲也先輩の名前が出た。 

実は、先輩が編集長だった『朝日ジャーナル』編集部と『週刊朝日』編集部は同じフロアで隣り合わせだった。

先輩は席を空けることが多いことで知られていた。

先輩のポケベルが机の中で虚しく鳴っているのは、私も何度か聞いたことがある。 

先輩はテレビ朝日が「教育テレビ」と言った頃、「こちらデスク」という夕方の番組でキャスターをした時期がある。

どんな時でも感情を表に出さず穏やかな顔で、いつも颯爽としているので、見惚れていた。 

先輩はテレビで有名になってから、朝日社員の身分で某候補の選挙カーで応援演説をしたことがあったが、あれはまずかった。

ジャーナリストが活動家になるのは、決して許されることではないからである。 

白状すると、先輩は活字ではなく電波の人だったと思っている。

申し訳ないが、お書きになったものを読んだことがない。

しかし、リベラル派ジャーナリストとしてTBS系列のニュース番組のメインーキャスターになってからの先輩のコメントには、正直、首をかしげることが多かった。 

日本が平和でいられたのは憲法九条のおかげで、米軍の威光は関係ないと、本気で思っていたのだろうか? 

日本の安全保障はどうする気でいたのだろう。

先輩のお別れの会で、私は遺影に手を合わせながら、そんなことばかり考えていた。 


同時に、戦争に勝った国は負けた国を好きにできることや、負ける戦争はやってはいけないことを学んだ。

2018年08月18日 20時01分06秒 | 日記

以下は月刊誌正論今月号(840円)に、私が選ぶ、戦後リベラル砦の「三悪人」、筑紫哲也、本多勝一、早野透、日本をおかしくした朝日新聞トリオと題して掲載された元朝日新聞編集員川村二郎氏の論文からである。

見出し以外の文中強調は私。

戦後の日本をおかしくしたのは一に日本社会党、二に日教組、三はこの二つを応援した朝日新聞だと、私は考えている。 

日本社会党の一番の罪は、非武装中立という浮き世離れをした無責任な主張を続けたことである。

この主張が日本を平和ボケにしたことを忘れてはなるまい。

中立国のスイスが徴兵制を敷き、国中がハリネズミのようになって自国の安全を守っていることを、マスコミは報じなければいけなかった。 

日本のサンフランシスコ講和条約締結に際して、全面講和を唱えた責任も問われるべきである。

米ソが冷戦状態に入っている時、全面講和などという現実離れをした主張をしていたら、日本の独立はいつになったことか。 

日本社会党の主張を支持する東大教授を、時の吉田茂首相が「曲学阿世の徒」と言ったのは、けだし名言だろう。

民主党が政権の座に就いて政治学者が拍手喝采した時、私の頭に浮かんだのが「阿世の徒」という言葉だったことを書いておく。 

日教組の罪は、教職という崇高な使命を負いながら自らを「労働者」と名乗ったことである。

親が我が子の教育を学校の先生に託すのは、教職に就く人間は聖職者の誇りを持っていると信じるからである。

ただの労働者に我が子の将来は託さない。

我が子の将来とは、この国の将来だからである。 

そして、朝日新聞が紙面上で、無責任な日本社会党と日教組を応援した事実は、誰も否定できない。

朝日が「そんなつもりはない」と言っても、“未必の故意”の責任は、免れないのではなかろうか。

私がこういう考え方をするようになったのは、朝日新聞の記者になってから約20年後、『週刊朝日』副編集長になってからである。 

当時、社内では「タテマエの朝日新聞、ホンネの週刊朝日」と言われていた。

要するに、「新聞はキレイごとでいいが、週刊誌はそうはゆかない」ということ。

換言すれば、出来事を単純な善悪二元論で報じても、新聞はそれですむ。

しかし週刊誌は多元的に書かなければ、商品価値がないという教えである。

私には、週刊誌の方が水に合った。 

私は数え五歳の時、玉音放送を疎開先の伊豆・下田で聞いた。

ひどい雑音で意味がわからなかったことと、母がその夜から部屋の電気を嬉しそうにつけていたことしか、覚えていない。 

小学校4年の時に下田から引き揚げて湘南・鵠沼に住むようになった頃は、朝鮮戦争で国連軍が北朝鮮と中国の義勇軍に押しまくられていた。

家から自転車で15分程の入り江になっていた辻堂海岸では、アメリカ軍が上陸作戦の演習を繰り返していた。

マッカーサー元帥の一発逆転の仁川上陸作戦が成功し、国連軍が共産軍を押し返すのは、この後である。 

家の本棚にあった上下二巻の『東京裁判を裁く』で、キーナン検事やパル判事の名前を知った。

同時に、戦争に勝った国は負けた国を好きにできることや、負ける戦争はやってはいけないことを学んだ。

ケンカも戦争も、やるからには勝たなければいけない。

その頃、神奈川県は日教組が強く、明治生まれで根っからアカ嫌いの父は、組合活動に熱心な学級担任を嫌っていた。

日教組の「勤務協定反対」いわゆる勤評闘争が燃えさかった時期である。 

担任は活動に忙しいようで、自習になる日が多かった。

自習の翌日、担任は教室に来ると決まって学級委員の私に覆い被さるようにして顔を近づけ、「昨日は変わったことはなかったか」と聞く。

酒臭い息で、息が止まりそうだった。

私の日教組嫌いは、酒臭い息に始まる。 

朝日の記者になって赴任した福岡は教組が強かった。

首長の選挙は、保革一騎打ちになることが多かったが、革新の主張は子供の頃に聞いた社会党左派のものと大同小異だった。

「弱者の味方」を気取るのが好きな我が朝日は、相も変わらずか例によってか、革新支持を続けていた。

しかし、学生時代からノンポリなので、私が影響を受けることはなかった。

この稿続く。