以下は一昨日発売された月刊誌WiLLの巻頭に掲載されている湯浅博の連載コラムからである。
人権を言わない平和の使徒
宗教のことを「アヘン」といったのは、共産主義の始祖、カール・マルクスだから、この世に「マルキスト聖職者」という言葉を聞いて驚いた。
この秋に来日したロ-マ教皇フランシスコは、かつてキューバの革命指導者だったフィデル・カストロに一定の評価を与えたことから、出身国のアルゼンチンではそう呼ぶ人がいたのだという。
「まさか」というのが最初の 印象だった。
確かにマルクスは『ヘーゲル法哲学批判序説』という難しい本で、「宗教は、悩んでいる者のため息」であり、「それは民衆のアヘンである」と述べた。
彼の言いたかったことは、宗教は幻影であって、この幻影をつくっている社会を批判しなければ始まらないではないか、という議論の組み立てだった。
従って、「マルキスト聖職者」という表現は水と油の合体で、中国の習近平国家主席が進める「宗教の中国化」のように、どうにも据わりが悪い。
もしあるとすれば、教皇も若気の至りだったかと、推量するしかなかった。
歴史上のマルクスモドキと聖職者の遭遇は、一九八九年十二月にソ連のゴルバチョフ議長がバチカンを訪問し、時のローマ教皇ヨハネ・パウロ二世と会談して話題をさらったときぐらいではないか。
この時すでに「ベルリンの壁」が崩壊して、共産主義のソ連は崩壊過程にあった。
レーニン以来、無神論で七十年をやってきたものの、にっちもさっちもいかなくなった。
もっとも、ゴルバチョフ自身は洗礼を受けた事実を認めた最初のソ連指導者だから、世の中にはウラとオモテがある。
囗の悪い評論家からは「土壇場になって神頼みか」と格好の餌食になった。
どうやら教皇の「マルクス主義者」説は、アメリカの保守派指導者あたりから出たものらしい。
これをフランシスコ自身が気にしたらしく、十二月十五日付の米紙『クリスチャン・ポスト』に「私はマルクス主義者ではない」と公式に否定した。
教皇は世界の貧困問題に、「市場や金融投機活動の絶対的自立性を拒絶し、不平等の構造問題にメスを入れない限り、貧困問題は解決されない」と繰り返し述べていた。
これに米保守派ラジオ番組のホスト、ラッシュ・リンボーが「これは純粋なマルクス主義の考え方です」「リベラルな社会主義者がアメリカについて述べる言葉に過ぎない」と痛烈に批判した。
フランシスコはイタリア紙などでの反論でも、「マルクス主義の概念は間違っています」と否定しつつ、「多くの良心的なマルク主義者と出会っている」と釈明していた。
どうやら、教皇の貧者や弱者を気遣う姿勢が左派を喜ばせ、自由市場重視の研究者は「教皇の名声を利用できる機会にしている」ともっともなコメントをしている。
そのフランシスコ教皇は日本へ向かう特別機の機内から中国、台湾、香港の指導者にメッセージを送っている。
教皇としては三十八年ぶり、二度目の来日で、「平和の使徒」が述べる言葉に期待が高まった。
香港では、キリスト教徒が自由を求める人々に人道的解決へ向けた教皇の介入を求めて署名活動を行っていた。
ところが教皇のメッセージは、抗議活動している人たちに言及することはなし。
バチカンが外交関係をもつ台湾に対しても、儀礼的な言葉しか発さず、民主派には失望だけが残った。
日本からロ-マに戻る機内記者会見でも、香港情勢を聞かれて「世界各地に問題を抱えた場所がある」「香港だけでなく、チリやフランス、ニカラグアなど、世界の情勢を考えなさい」とはぐらかしていた。
「いつ中国に行くのでしょう?」との質問には、「北京に行きたい。中国が大好きだ」と明言している。
これでは、「マルキスト聖職者」という言葉を探し出して、文句を言う人が出てくるのも頷ける。
さすがにフランス紙『フィガロ』は、これを「偽善」との見出しを掲げ、「中国の機嫌を損ねないようにしている」と辛辣に批判した。
やはり、フランシスコは「宗教の中国化」と親和性があるのだろう。
中国の習近平主席は二〇一七年の第十九回共産党大会で掲げた、この「宗教の中国化」によって共産党による締め付けを強化してきたが、共産党とカトリック教会との暗黙の共存が存在するのだという。
教皇は微妙な均衡にある中国の事情を考慮し、あえて中国を苦境に陥れるような発言を控えたのかもしれない。
それが教皇の現実主義というものか。
しかし、教皇は日本滞在中に核廃絶については現実的な考慮をしなかった。
「核抑止力も違法」であり、「原子力発電は使うな」などと、文字通り反核メッセージの偽善が、日本滞在中の目玉になった。
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