以下は2015/10/7に発信した安倍南牛さんの労作の続きである。
*タイトル以外の黒字強調は私。
戦後に於ける在日朝鮮人犯罪の特長
敗戦直後から朝鮮人の犯罪は増加する。
それは帝国敗戦前には想像できないことだった。
警察機構の改編に、朝鮮人に対する刑事裁判権の曖昧さが影響している。
昭和20(1945)年8月=5件▽9月=19件▽10月=26件▽11月~36件▽12月=42件 集団暴行、集団闘争、不穏行動が多く、集団による強盗事件は8件であった。
殺人では、年の暮れの12月29日の信越線の要所である直江津駅のプラットホームにおいて衆人監視のなかで日本人青年が、朝鮮人の3人組に殺された事件がある。
3人の朝鮮人は、ヤミ米を30キロくらいずつ持って列車の窓ガラスを叩き割って乗り込もうとした。
それを咎めた日本人青年を「朝鮮人にむかって生意気だ」と、パイプやスコップを使って殺害した。
その後、所在地の警察は朝鮮人3人組を逮捕し、殺人の現行犯として検事局に送ったが、越後高田に進駐した米軍軍政部が引き取り、逃している。
この米軍軍政部の行為は、進駐してきた米軍が朝鮮人を解放した、という認識での行為と見られた。
真珠湾を攻撃した日本人よりも、朝鮮人の地位を上げることで、朝鮮人の解放を示した行為でもある。
1946年2月、GHQは、「朝鮮に帰還する意志あることについての適当な証拠を提供した朝鮮人に対し、日本の刑事法廷が下した判決は、GHQが審査し、しかるべき措置をとるものとする」(『日本における朝鮮少数民族』)との覚書を発出する。
越後高田の米軍軍政部の殺人者への対応は、このGHQの覚書を先取りしたものであった。
彼らが、戦時に徴用された工員であることが明白になるや、無罪放免したのである。
阿部南牛さんの労作を読んで知る事は…私たちが、戦後の日本について、全くと言って良いほど何も知らないと言う事である。
朝日や毎日を購読して…見せかけのモラリストになって…自分は世界の全てを知っていると思っていたのが戦後の日本人であると言っても過言ではないだろう。
以下は前章の続きである。
*タイトル以外の黒字強調は私。
敗戦直後は食糧難であった。
GHQが満洲からの引き揚げを1年間待たせたのは、日本の食糧難が背景にあった。
この時代、北陸から京都へ朝鮮人はヤミ米を運んでおり、1946年1月24日には京都で、ヤミ米捜査を巡って朝鮮人が七条警察署を襲撃するという騒擾事件を起こしているが、それは進駐米軍の朝鮮人への対応を背景にしていた。
ヤミ米の摘発で、朝鮮人はたびたび日本の警察といざこざを起こした。
同年8月の富山駅前派出所襲撃事件もヤミ米の取り締まりに朝鮮人が反発した事件である。
直江津駅事件で、米軍軍政部が裁判にも掛けず無罪放免したことで、朝鮮人は日本人よりも一段高い存在に認められたと受け止めたのである。
犯罪は貧困と無知が生むとされているが、この時代では米軍軍政部、GHQなどの動きが在日韓国・朝鮮人をして日本の法律に無頓着にさせた。
アメリカ人歴史学者エドワード・W・ワグナーは、「朝鮮人の文化的伝統からいうと、個人の法律に対する関係は主観的なものであり、このことが朝鮮人の頭にたたき込まれていた」(前掲『日本における朝鮮少数民族』)ことが、在日朝鮮人の犯罪を多発させていたと論じている。
それに、密入国者の多さにも犯罪多発の原因があったと警察庁の『犯罪統計書』に記述されている。
密入国は世界の何れにおいても見られる現象であり、そのために「在留特別許可」制度が存在する。
しかし戦後の日本の場合は密入国の問題はその量、人数の多さ、敗戦後の国家再建の途上にあった情勢下においては、米国などのそれとは比べることもできない程の重大事であった。
朝鮮半島からの密入国者の増大に日本の経済再建に仇為すと判断したGHQは、昭和21(1946)年3月に最高司令官の許可無き者の入国を禁止し、翌4月から取締を始めた。
取締を始めてからの密入国者数を、警察の摘発記録でみると、1946年から1953年までの合計は6万963人であった。
このうち1946年が2万1400人で異常に多い。
GHQの要請で在日朝鮮人は朝鮮半島へ引き揚げた。
本人の帰国希望もむろんあって日本政府は計画的に1946年末までに送還した。
ところが、一旦帰国した朝鮮人は韓国の政治的経済的社会不安から日本在住当時の生活を思い出し、再入国する者が激増したのであった。
それにこの数字は摘発された人数であって、実際はこの数倍の朝鮮人が日本へ密入国してきた。
彼らが密入国で日本に戻ってきたのは、1946年3月、GHQが「本国に引き揚げた非日本人は最高司令官の許可がない限り商業交通が可能となる時期まで日本に引き返すことは出来ない」という覚書を発したためである。
日本からの帰国者数は、1945年8月から覚書が出されるまで94万438人を数える。
このうち自主的に帰国した人数は約50万人と推定されている。
この覚書の発行後、密入国への取り締まりも強化される一方、GHQは1946年末まで日本政府に命じて計画的送還を続けさせた。
その結果、1946年末迄に約152万3338人が帰国する。
昭和13(1938)年に79万9878人だった在日朝鮮人数は、大東亜戦争勃発直前の1940年には124万1315人に達していた。
そして、帝国敗戦直前の1944年末には193万6843人に達した。
この統計が約200万人の在日朝鮮人という根拠となっている。
敗戦の年、1945年になると米潜水艦の航行妨害で、玄界灘を渡って来ることが難しくなっていた。
この193万6千人余から、1945年8月~46年末までに引き揚げた人数を引くと41万3505人となる。
一方、1947年10月の国勢調査では、在日朝鮮人数は50万8905人であった。
この差の約10万人が密入国者だと推定される、朝鮮戦争勃発直前の1950年3月の登録者数は、53万5236人とさらに増加している。
当時は、密入国者の登録できる手段が構築されていた。
登録が厳しくなるのは、1952年の日本の独立後であった。
戦後10年間の朝鮮人の「犯罪」
朝鮮人の男子の密入国者が犯罪を多くしたと指摘していたのは警察庁である。
今では見かけることはないが、敗戦後の10年間はこの列島内(沖縄県を除く)での外国人犯罪の発生件数が記録されていた。
警察庁刑事部の『犯罪統計書』などによると、在日朝鮮人は毎年2万人以上が摘発され、朝鮮戦争が起きた昭和25(1950)年が最多で2万9440人。受刑者数は6026人だった。
ちなみにこの年の中国人犯罪者数は370人であった。
これを居住人口1000人当たり犯罪者率でみると、朝鮮人は4.55、中国人は0.8人となる。
敗戦で荒んだ日本人の場合は0.59だったから、朝鮮人の起こす犯罪が如何に多かったが分かる。
この異常に高い犯罪発生率に関して、警察庁は、朝鮮人の犯罪者率を見る場合には、基礎人口が外国人登録法により登録された人数だから高くなると指摘している。
在日朝鮮人の場合、外国人登録をしていない、未登録者による犯罪が多いことを理由としていた。
未登録者とは、密入国者を指した。
この稿続く。
*タイトル以外の黒字強調は私。
戦後に於ける在日朝鮮人犯罪の特長
敗戦直後から朝鮮人の犯罪は増加する。
それは帝国敗戦前には想像できないことだった。
警察機構の改編に、朝鮮人に対する刑事裁判権の曖昧さが影響している。
昭和20(1945)年8月=5件▽9月=19件▽10月=26件▽11月~36件▽12月=42件 集団暴行、集団闘争、不穏行動が多く、集団による強盗事件は8件であった。
殺人では、年の暮れの12月29日の信越線の要所である直江津駅のプラットホームにおいて衆人監視のなかで日本人青年が、朝鮮人の3人組に殺された事件がある。
3人の朝鮮人は、ヤミ米を30キロくらいずつ持って列車の窓ガラスを叩き割って乗り込もうとした。
それを咎めた日本人青年を「朝鮮人にむかって生意気だ」と、パイプやスコップを使って殺害した。
その後、所在地の警察は朝鮮人3人組を逮捕し、殺人の現行犯として検事局に送ったが、越後高田に進駐した米軍軍政部が引き取り、逃している。
この米軍軍政部の行為は、進駐してきた米軍が朝鮮人を解放した、という認識での行為と見られた。
真珠湾を攻撃した日本人よりも、朝鮮人の地位を上げることで、朝鮮人の解放を示した行為でもある。
1946年2月、GHQは、「朝鮮に帰還する意志あることについての適当な証拠を提供した朝鮮人に対し、日本の刑事法廷が下した判決は、GHQが審査し、しかるべき措置をとるものとする」(『日本における朝鮮少数民族』)との覚書を発出する。
越後高田の米軍軍政部の殺人者への対応は、このGHQの覚書を先取りしたものであった。
彼らが、戦時に徴用された工員であることが明白になるや、無罪放免したのである。
阿部南牛さんの労作を読んで知る事は…私たちが、戦後の日本について、全くと言って良いほど何も知らないと言う事である。
朝日や毎日を購読して…見せかけのモラリストになって…自分は世界の全てを知っていると思っていたのが戦後の日本人であると言っても過言ではないだろう。
以下は前章の続きである。
*タイトル以外の黒字強調は私。
敗戦直後は食糧難であった。
GHQが満洲からの引き揚げを1年間待たせたのは、日本の食糧難が背景にあった。
この時代、北陸から京都へ朝鮮人はヤミ米を運んでおり、1946年1月24日には京都で、ヤミ米捜査を巡って朝鮮人が七条警察署を襲撃するという騒擾事件を起こしているが、それは進駐米軍の朝鮮人への対応を背景にしていた。
ヤミ米の摘発で、朝鮮人はたびたび日本の警察といざこざを起こした。
同年8月の富山駅前派出所襲撃事件もヤミ米の取り締まりに朝鮮人が反発した事件である。
直江津駅事件で、米軍軍政部が裁判にも掛けず無罪放免したことで、朝鮮人は日本人よりも一段高い存在に認められたと受け止めたのである。
犯罪は貧困と無知が生むとされているが、この時代では米軍軍政部、GHQなどの動きが在日韓国・朝鮮人をして日本の法律に無頓着にさせた。
アメリカ人歴史学者エドワード・W・ワグナーは、「朝鮮人の文化的伝統からいうと、個人の法律に対する関係は主観的なものであり、このことが朝鮮人の頭にたたき込まれていた」(前掲『日本における朝鮮少数民族』)ことが、在日朝鮮人の犯罪を多発させていたと論じている。
それに、密入国者の多さにも犯罪多発の原因があったと警察庁の『犯罪統計書』に記述されている。
密入国は世界の何れにおいても見られる現象であり、そのために「在留特別許可」制度が存在する。
しかし戦後の日本の場合は密入国の問題はその量、人数の多さ、敗戦後の国家再建の途上にあった情勢下においては、米国などのそれとは比べることもできない程の重大事であった。
朝鮮半島からの密入国者の増大に日本の経済再建に仇為すと判断したGHQは、昭和21(1946)年3月に最高司令官の許可無き者の入国を禁止し、翌4月から取締を始めた。
取締を始めてからの密入国者数を、警察の摘発記録でみると、1946年から1953年までの合計は6万963人であった。
このうち1946年が2万1400人で異常に多い。
GHQの要請で在日朝鮮人は朝鮮半島へ引き揚げた。
本人の帰国希望もむろんあって日本政府は計画的に1946年末までに送還した。
ところが、一旦帰国した朝鮮人は韓国の政治的経済的社会不安から日本在住当時の生活を思い出し、再入国する者が激増したのであった。
それにこの数字は摘発された人数であって、実際はこの数倍の朝鮮人が日本へ密入国してきた。
彼らが密入国で日本に戻ってきたのは、1946年3月、GHQが「本国に引き揚げた非日本人は最高司令官の許可がない限り商業交通が可能となる時期まで日本に引き返すことは出来ない」という覚書を発したためである。
日本からの帰国者数は、1945年8月から覚書が出されるまで94万438人を数える。
このうち自主的に帰国した人数は約50万人と推定されている。
この覚書の発行後、密入国への取り締まりも強化される一方、GHQは1946年末まで日本政府に命じて計画的送還を続けさせた。
その結果、1946年末迄に約152万3338人が帰国する。
昭和13(1938)年に79万9878人だった在日朝鮮人数は、大東亜戦争勃発直前の1940年には124万1315人に達していた。
そして、帝国敗戦直前の1944年末には193万6843人に達した。
この統計が約200万人の在日朝鮮人という根拠となっている。
敗戦の年、1945年になると米潜水艦の航行妨害で、玄界灘を渡って来ることが難しくなっていた。
この193万6千人余から、1945年8月~46年末までに引き揚げた人数を引くと41万3505人となる。
一方、1947年10月の国勢調査では、在日朝鮮人数は50万8905人であった。
この差の約10万人が密入国者だと推定される、朝鮮戦争勃発直前の1950年3月の登録者数は、53万5236人とさらに増加している。
当時は、密入国者の登録できる手段が構築されていた。
登録が厳しくなるのは、1952年の日本の独立後であった。
戦後10年間の朝鮮人の「犯罪」
朝鮮人の男子の密入国者が犯罪を多くしたと指摘していたのは警察庁である。
今では見かけることはないが、敗戦後の10年間はこの列島内(沖縄県を除く)での外国人犯罪の発生件数が記録されていた。
警察庁刑事部の『犯罪統計書』などによると、在日朝鮮人は毎年2万人以上が摘発され、朝鮮戦争が起きた昭和25(1950)年が最多で2万9440人。受刑者数は6026人だった。
ちなみにこの年の中国人犯罪者数は370人であった。
これを居住人口1000人当たり犯罪者率でみると、朝鮮人は4.55、中国人は0.8人となる。
敗戦で荒んだ日本人の場合は0.59だったから、朝鮮人の起こす犯罪が如何に多かったが分かる。
この異常に高い犯罪発生率に関して、警察庁は、朝鮮人の犯罪者率を見る場合には、基礎人口が外国人登録法により登録された人数だから高くなると指摘している。
在日朝鮮人の場合、外国人登録をしていない、未登録者による犯罪が多いことを理由としていた。
未登録者とは、密入国者を指した。
この稿続く。
2024/12/8 in Kyoto