以下は今日の産経新聞に、大物東大教授「手のひら返し」の謎、と題して掲載された、元城西大教授杉原誠四郎氏の寄稿論文からである。
日本国民のみならず世界中の人たちが必読。
憲法学の不都合な史実
ウクライナ侵攻や中国の脅威のせいか最近は自衛隊違憲論の憲法学者は息をひそめていたが、防衛費倍増や敵基地攻撃能力(反撃能力)をめぐる議論では再び、憲法第9条を盾に反対する声が高まってきた。
日本は相変わらず9条のくびきから解かれることがない。
しかし、そもそも憲法が戦争放棄、軍隊の不保持を定めているという認識は、正しいのか。
9条1項には「国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とあるが、条文をよく読めば分かるように、戦争放棄はあくまで「国際紛争を解決する手段としては」という条件付きだ。
「自衛の手段としては」戦争は放棄していないという解釈も、論理として成り立ち得るし、現実に政府の解釈も自衛権行使は認めている。
ただ、これを「戦争」とは呼ばないのである。
9条2項の軍隊の不保持にしても、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と定めているのだから、「前項の目的」とは異なる自衛の目的ならば、軍隊は持てるという解釈も、論理・学説としては成り立つ。
というよりは、憲法制定過程をたどれぱ、この解釈にも一定の理があることが分かる。
実は戦後間もなく、占領軍に憲法草案を押し付けられた政府の原案では、2項に「前項の目的を達するため」の字句はなく、あらゆる条件において、軍隊は持ってはならないと読める条文になっていた。
が、衆議院の修正で「前項の目的を達するため」が挿入された。
この修正は衆議院で憲法を審議した小委員会の委員長であった芦田均の提案で行われたとので、「芦田修正」と呼ばれているが、これを見た米国など戦勝国側の極東委員会は、占領軍を通じ、軍人が大臣にならないように憲法第66条に「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」という字句を日本に入れさせた。
新憲法下で軍隊を保持しないなら、軍人もいない、つまり文民以外はいないのだから、本来こんな条文は不要である。
それをわざわざ書き込ませたということは、新憲法を押し付けた側から見ても、9条は自衛のためならば軍隊を保持できるように解釈できたということなのだ。
現在、日本政府はこのような憲法解釈(芦田修正論)はとらず、9条全体から解釈して自衛隊を合憲の存在としているが、それにしても憲法はことほどさように、幅広く多様に解釈することが可能なのである。
戦争放棄の憲法を持つ国は日本以外にも少なからずあるが、それでも軍隊を持つのは国際的な常識である。
しかし、なぜか日本の憲法学は原理主義的な戦争放棄と軍隊不保持にこだわってきた。
国際政治学者の篠田英郎(ひであき)氏は著書「憲法学の病」(新潮新書)で、これを厳しく批判している。
同書は東京大学法学部の歴代憲法学者の憲法学を「憲法学の病」と呼び、国際常識からかけ離れ「ガラパゴス化」していると批判する。
東大法学部の憲法解釈が席巻している日本の現状では、事実上日本の憲法学を批判する書である。
この稿続く。
2023/4/4, in Kyoto