文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

「天皇制の廃止。貴族院の廃止。現在の軍隊、警察、憲兵、秘密警察の廃止。労働者の武装。朝鮮、中国、台湾、樺太からの軍隊の撤退。天皇および大地主の土地の没収とその国有化」

2019年06月03日 16時22分43秒 | 日記

以下の書は日本国民全員が必読であるのみならず世界中の人たちにも必読の書である。
朝日新聞を購読しNHKを視聴しているだけの人たちが全く知らなかった事実…知らされなかった事実が満載されている。
戦後の世界で最高の書の一つである。
渡部昇一氏は私の生まれ故郷である宮城県の隣県である山形県の出身である。
山形県人は、戦後日本で最高の知識人であり日本の本物の宝物である氏の同郷人である事を日本と世界に向かって誇り続けなければならない
日本はコミンテルンの魔の手に踊らされた 
前章で述べたように、戦後、昭和天皇は連合軍総司令官に「subject to」、つまり隷属させられていた。
だから終戦翌年(昭和21年〈1946〉)のいわゆる「人間宣言」と称せられている詔書など、当時の天皇陛下のお言葉は、すべて被脅迫状況のなかで発せられたものであり、そのまま額面どおり信用すべきものではない。
マッカーサー元帥はこの詔書に満足の意を表したと報道されている。
マッカーサーを満足させるための詔書であることは明らかであった。 
もっとも、この詔書をよく読むと「単ナル神話卜伝説二依リテ生ゼルモノニ非ズ」とあるから、神話と伝説を否定したわけでもなく、「それだけが根拠でない」と言っているとも解釈できる。
天皇が現御神(西洋のデウスとかゴッドではない)であることを否定しているわけでもない。
ただマッカーサーに渡った英訳文(これを私は見たことがない)では、マッカーサーを満足させるようになっていたのであろう。 
いずれにせよ、天皇陛下は西洋で言うところの「ゴッド」ではないが、依然として日本の神道の中心であられることは紛れもない事実である。
昭和天皇を中心に昭和史を見るというのは、一つのオーソドックスな見方だと思う。
ここではその見方について伝えよう。 
昭和天皇が不幸であられたのは、ご成長なされるのと前後してロシア革命が起こったことである。
ロシア革命は昭和天皇だけに関係があったことではないが、ロシア革命が起こったあと、スターリン政府が日本に向けて「皇室をなくせ」という指令を出した。
これがコミンテルンによる、いわゆる「22年テーゼ」「27年テーゼ」「32年テーゼ」などというものである。 
コミンテルンが創設されたのはロシア革命から2年後の大正11年(1922)で、日本共産党は大正11年(1922)に「コミンテルン日本支部」として発足した。
その「コミンテルン日本支部」である日本共産党に出された「22年テーゼ」(大正11年)を例に挙げると、以下のような項目になる。 
「天皇制の廃止。貴族院の廃止。現在の軍隊、警察、憲兵、秘密警察の廃止。労働者の武装。朝鮮、中国、台湾、樺太からの軍隊の撤退。天皇および大地主の土地の没収とその国有化」
こんなことが貧弱な一組織である共産党にできるわけがないにもかかわらず、コミンテルンはこのような指示を出した。 
ちなみに、日本でもよく使われる「天皇制」という呼称はコミンテルンが作ったもので、日本人は「皇室」と呼ぶべきである。
この辺りのことは、谷沢永一氏の『「天皇制」という呼称を使うべきでない理由』(PHP研究所)に詳しく書かれている。 
コミンテルンの「天皇制の廃止」命令を受けて、日本は治安維持法を作らなければならなくなった。
スターリンの指令はこういういろいろな悲劇を生んでいる。 
ロシア革命というものがなく、コミンテルンが暗躍しなければ、20世紀は平穏な時代であったのではないだろうか。 
まず、ロシア革命がなければヒトラーは生まれなかった。
ヒトラーはロシア革命、つまり共産党に対するドイツでの反対運動のなかから出てきた人物である。
しかし、ナチスというのはドイツ国家社会主義的労働者党(die Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)だから、ヒトラーも社会主義者にほかならない。
したがって、ヒトラーとスターリンの戦争は左翼同士の喧嘩ということになる。 
また、イタリアでも共産党とムッソリーニ首相が対立した。
ムッソリーニはもちろん左翼である。 
これを大学紛争に譬えると、共産党の代々木派と反代々木系の中核や革マルの争いだと言える。
大学紛争の頃、左翼同士がお互いをファシストと罵り合っていた。
つまり、スターリンは民青、ヒトラーはドイツの中核派、ムッソリーニはイタリアの革マル派だと言ってもいい。 
コミンテルンの魔の手はアメリカにも伸びて民主党の中心部に食い入り、これがアメリカを日本との戦争に駆り立てていく。 
東條英機首相はアメリカとの交渉にあたって、昭和天皇のご意思に忠実に全力を尽くして和平への道を探っていた。
アメリカが一歩も譲らないのを受けて、最終的に日本はこれで話がつくであろうという乙案を出した。
これがハル・ノートという事実上、アメリカの最後通告によって突如びっくり返り、日本は開戦へと踏み切らざるを得ない状況に追い込まれてしまった。 
このハル・ノートはハル国務長官が書いたものではなく、実際はハリー・ホワイトという財務省の役人が書いたものだが、彼はソ連のエージェントだった。
スターリンから、アメリカと日本を戦争させろという命令が下っていたのである。 
もちろん、満洲およびシナでも共産党がなければ、あのような反日運動は起こらなかっただろう。
ソ連のコミンテルンの魔の手に日本は踊らされたのだ。 
昭和天皇の御代の大部分がソ連共産主義と同時代であったということは、悲劇だった。
多少の救いと言えば、昭和天皇がソ連の解体に連なるペレストロイカ(ツ連建て直し政策)をご覧になってからお亡くなりになったことである。 

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