写真集を作成していて驚いた。
2011/7/24の日付だったからである。
2011年5月に「生きる確率25%」と宣告されて8か月の入院生活を送っていた大病院には、1っか月に1回、リフレッシュ退院制度があった。
私は、まさか、この日に、ここに行っていたとは思いもしなかった。
この後で智積院の庭の撮影に行っていた事にも驚いた。
おまけに智積院では、同行者が、首にカテーテルを付けたままの私の写真を数枚撮っていてくれたから猶更。
皆様にもお見せ出来たら良いのだが、何しろ私は公人、或いは芸能人ではないので、悪しからず。
20歳の頃、東京の高島屋でウナギの昼食をごちそうになっていた時、生粋の江戸っ子のおばあさんが「いいマスクをしているんだからさぁ、京大なんかに行くのは止めて俳優座に行きなよ」と言われた二枚目が、我ながら本当に良い顔をしていた。
「とんでもないものが見つかって…」「構いませんから病名を言って下さい」私は、友人たちに「私は永遠に生きたいと願う無限の思索者である」と言い続けて来た。
そんな私だったが、病名を聞いた瞬間に死ぬ覚悟が出来た事は既述の通り。
先輩なのか同級生なのか、はたまた後輩なのかは分からないけれど、京大医学部卒業の部長以下、部下の先生方5,6名に対して、「私にはやらなければならない事があるから、今、死ぬわけには行かないのです。だから、助けて下さい。お願いします」とだけ言ったのだった。
とにかく、私にはどうする事も出来ないのだから、彼らを信頼して、彼らとの縁を感じて、任せるしかない。
この時の写真を、私が二度と撮れない事は言うまでもない。
2011/7/24の日付だったからである。
2011年5月に「生きる確率25%」と宣告されて8か月の入院生活を送っていた大病院には、1っか月に1回、リフレッシュ退院制度があった。
私は、まさか、この日に、ここに行っていたとは思いもしなかった。
この後で智積院の庭の撮影に行っていた事にも驚いた。
おまけに智積院では、同行者が、首にカテーテルを付けたままの私の写真を数枚撮っていてくれたから猶更。
皆様にもお見せ出来たら良いのだが、何しろ私は公人、或いは芸能人ではないので、悪しからず。
20歳の頃、東京の高島屋でウナギの昼食をごちそうになっていた時、生粋の江戸っ子のおばあさんが「いいマスクをしているんだからさぁ、京大なんかに行くのは止めて俳優座に行きなよ」と言われた二枚目が、我ながら本当に良い顔をしていた。
「とんでもないものが見つかって…」「構いませんから病名を言って下さい」私は、友人たちに「私は永遠に生きたいと願う無限の思索者である」と言い続けて来た。
そんな私だったが、病名を聞いた瞬間に死ぬ覚悟が出来た事は既述の通り。
先輩なのか同級生なのか、はたまた後輩なのかは分からないけれど、京大医学部卒業の部長以下、部下の先生方5,6名に対して、「私にはやらなければならない事があるから、今、死ぬわけには行かないのです。だから、助けて下さい。お願いします」とだけ言ったのだった。
とにかく、私にはどうする事も出来ないのだから、彼らを信頼して、彼らとの縁を感じて、任せるしかない。
この時の写真を、私が二度と撮れない事は言うまでもない。