日本史事典.comより【阿衡の紛議とは】わかりやすく解説!!事件の原因や内容・その後の影響など を紹介します。
ここから https://nihonsi-jiten.com/akou-no-hungi/
目次です。
1 阿衡の紛議とは?
2 阿衡の紛議が起こった背景と原因
①快進撃が始まる藤原北家
②藤原基経の大暴れ
3 阿衡の紛議の流れ【事件の内容】
①基経の阿衡への就任
②阿衡はどんな役職?
③基経がついに激怒
④頑張って宇多天皇! 阿衡の紛議の鎮め方
⑤菅原道真の登場
4 なぜ基経はこんなに激怒したのか?
5 阿衡の紛議の意義
①天皇よりも藤原北家
②宇多天皇の藤原排斥
6 まとめ
阿衡の紛議は阿衡事件とも言います。
仁和3 (887) 年,宇多天皇が藤原基経に与えた勅書のなかの文字「阿衡」をめぐる事件。
宇多天皇の即位に努力した基経を関白に任じようとした文書のなかに「阿衡の佐をもって卿の任とす」とあり,この「阿衡」が職掌のない名誉官であったところから,基経に政治から手をひかせる意味と解する説が出現しました。
怒った基経は一切の政務からあえて手をひき,天皇は大いに困惑しました。
単なる修辞が学者の解釈論から,政治問題にまで発展したもので,結局,勅書の草稿をつくった橘広相 (たちばなのひろみ) に責任をとらせ,基経も納得し,ようやく落着しました。
学者間の争いから、藤原死体天皇の争いに発展したもので、藤原氏の力がさらに上がり、後の摂関政治の呼び水となりました。
菅原道真の発言力も増加したきっかけになりました。
一気にまとめを見てみましょう。
✔ 阿衡の紛議とは宇多天皇と藤原基経の間で起きた政治的紛争のこと。
✔ 宇多天皇は藤原基経に関白の就任の勅書を贈ったが、その中に阿衡という名誉職の意味が書かれていたため基経は激怒した。
✔ 基経は激怒して以降政務を放ったらかしにしたが、菅原道真の説得でようやく怒りを収めた。
✔ この阿衡の紛議のお陰でこれから日本ではしばらくの間天皇よりも藤原氏の方が権力があると思われるようになった。