自分の目で見た台湾を社楽的に紹介する台湾レポート第4弾。
観光地では、どこでも日本語が通じます。
若い人でも、現地語、英語、日本語で説明してくれます。
ここでは、日本と台湾の関係ついて、考えてみましょう。
日本と台湾の関係は?
日本では、戦国時代から江戸時代初期にかけての台湾を「高山国」、「高砂国」と称していました。
秀吉などが、書をおくり入貢を強要しましたが失敗に終わっています。
そののち、オランダが支配し、東インド会社を設立します。
1628年には、台湾貿易をめぐり、オランダの植民地政府との間に紛争発生(タイオワン事件)、幕府が平戸のオランダ商館を閉鎖しています。
ここでヒーローが登場します。鄭 成功です。
1662年、清朝に抵抗していた中国人と日本人の混血である鄭成功の軍勢は、清への反攻の拠点を確保する為に台湾のオランダ・東インド会社を追い出しました。
しかし、このあと、清朝に降伏します。
1871年には、日本の船が台湾で遭難し、乗組員54人が台湾原住民に殺害される事件が発生しました。これを口実に、西郷従道率いる征討軍3000名が台湾に上陸し、武力で制圧しました(台湾出兵)。
これには、清国政府が日本軍の出兵に賠償金50万両支払うことと引き換えに、日本軍が撤兵した。
1895年、日清戦争後の下関条約で、日本領になります。反乱も起きましたが、約5ヵ月後にはおさまりました。
5月には台湾総督府を設置し、樺山資紀海軍大将を初代総督に任命しました。植民地統治の開始です。
※ 台湾総督府は後日紹介します。
土地改革やライフラインの整備、アヘン中毒患者の撲滅、学校教育の普及、製糖業などの産業の育成を行うことにより台湾の近代化を推進しました。
教育制度など、日本のシステムの多くが今でも残っています。
その後、日本の敗戦により中国に返還し、台湾総督府は正式に廃止されました。
日本の降伏後、中華民国(国民政府)は、日本資産を接収しました。(当時の貨幣価値で110億円)。
日本は、サンフランシスコ平和条約で台湾・澎湖諸島の権利、権原及び請求権を放棄しましたが、この講和条約には中華人民共和国、中華民国のいずれも参加していません。
そこで、日本は、中華民国政府との二国間講和条約の交渉を開始し、1952年、日華平和条約に調印し、日本と台湾(中華民国)との国交が回復しました。
この議定書で、中華民国は日本に対する損害賠償請求権を放棄したことは、蒋介石総統の功績です。
また、国共内戦では、台湾に移った国民政府を守るために、日本からは有志の軍が台湾に渡り、台湾に対する中華人民共和国に備えました。
その後の日台関係は順調に進みましたが、日本国内では、中共政権との国交樹立を推進する機運が徐々に高まりました。
1972年のニクソン訪中は日本に衝撃を与え、田中角栄政権は、中国大陸を支配する中華人民共和国政府を「中国の唯一の合法政府」と承認し、国交を樹立しました(日中国交正常化)。
これにより、中華民国外交部は即日、対日断交を宣言したのです。
しかし、その後も民間レベルの交流が続きました。経済的な交流はいうまでもありません。
1999年の台湾大地震では日本が緊急援助隊を一番で送り、最大規模の援助活動を実施しました。
翌年には、台湾高速鉄道計画で、日本企業連合による「新幹線システム」導入が決定しました。
台湾の人は、日本に対してどのようなイメージを持っているのでしょうか?
ガイドのキュウさんによれば、「台湾の人は、日本に対して悪いイメージはない」ということでした。
戦時中も、一部の抗日行動をのぞけば紛争はわずかでした。
それに対して、日本が建設したライフライン等の整備や制度の導入は、台湾の発展に大きく貢献しました。
これには、親日だった孫文や、蒋介石の影響もあることでしょう。
ここで、今日訪れた、蔣介石の顕彰施設である、中正紀念堂を紹介しましょう。
中国の伝統的な宮殿陵墓式です。
敷地面積は25万平方メートルにのぼり、日本統治時代の山砲隊、歩兵第一連隊の軍用地跡地だったそうです。
本堂のほかに国家戯劇院や国家音楽庁、公園広場、休息所や回廊、庭園などがあります。
昨日は、小学生が遠足に来ていました。
この「遠足」も、おそらく日本の統治時代に根付いた行事です。
エレベーターで上がると、蔣介石の巨大な像がありました。
やはり、微動だにしない兵が守っていました。
天井には、国章である「青天白日」の徽章が描かれていました。
台湾の人における、蒋介石の大きさがたいへんよく分かりました。
このブログでのシリーズ記事は・・・
台湾レポート-1-
台湾レポート-2-
台湾レポート-3-
台湾レポート-4-
台湾レポート-5-
台湾レポート-6-
台湾レポート-7-
台湾レポート-8-
台湾レポート-9-
台湾レポート-10-
台湾レポート-11-
台湾レポート-12-
台湾レポート-13-
台湾レポート-14-
台湾レポート-15-
台湾レポート-16-
台湾レポート-17-
台湾レポート-18-
台湾レポート-19-
台湾レポート-20-
台湾レポート-21-
台湾レポート-22-
台湾レポート-23-
台湾レポート-24-
台湾レポート-25-
台湾レポート-26-
台湾レポート-27-
台湾レポート-28-
台湾レポート-29-
台湾レポート-30-
台湾レポート-31-
台湾レポート-32-
台湾レポート-33-
台湾レポート-34-
台湾レポート-35-
台湾レポート-36-
台湾レポート-37-
台湾レポート-38-
このブログでの他のシリーズは・・・
さわやか中欧 見てある記 -1-
ベトナム・ホーチミン みてある記 -1-
タイ・バンコク 見てある記-1-
シェムリアップみてある記 -1-
香港に来ています
平成25年度北方四島交流訪問事業 -古釜布湾-
観光地では、どこでも日本語が通じます。
若い人でも、現地語、英語、日本語で説明してくれます。
ここでは、日本と台湾の関係ついて、考えてみましょう。
日本と台湾の関係は?
日本では、戦国時代から江戸時代初期にかけての台湾を「高山国」、「高砂国」と称していました。
秀吉などが、書をおくり入貢を強要しましたが失敗に終わっています。
そののち、オランダが支配し、東インド会社を設立します。
1628年には、台湾貿易をめぐり、オランダの植民地政府との間に紛争発生(タイオワン事件)、幕府が平戸のオランダ商館を閉鎖しています。
ここでヒーローが登場します。鄭 成功です。
1662年、清朝に抵抗していた中国人と日本人の混血である鄭成功の軍勢は、清への反攻の拠点を確保する為に台湾のオランダ・東インド会社を追い出しました。
しかし、このあと、清朝に降伏します。
1871年には、日本の船が台湾で遭難し、乗組員54人が台湾原住民に殺害される事件が発生しました。これを口実に、西郷従道率いる征討軍3000名が台湾に上陸し、武力で制圧しました(台湾出兵)。
これには、清国政府が日本軍の出兵に賠償金50万両支払うことと引き換えに、日本軍が撤兵した。
1895年、日清戦争後の下関条約で、日本領になります。反乱も起きましたが、約5ヵ月後にはおさまりました。
5月には台湾総督府を設置し、樺山資紀海軍大将を初代総督に任命しました。植民地統治の開始です。
※ 台湾総督府は後日紹介します。
土地改革やライフラインの整備、アヘン中毒患者の撲滅、学校教育の普及、製糖業などの産業の育成を行うことにより台湾の近代化を推進しました。
教育制度など、日本のシステムの多くが今でも残っています。
その後、日本の敗戦により中国に返還し、台湾総督府は正式に廃止されました。
日本の降伏後、中華民国(国民政府)は、日本資産を接収しました。(当時の貨幣価値で110億円)。
日本は、サンフランシスコ平和条約で台湾・澎湖諸島の権利、権原及び請求権を放棄しましたが、この講和条約には中華人民共和国、中華民国のいずれも参加していません。
そこで、日本は、中華民国政府との二国間講和条約の交渉を開始し、1952年、日華平和条約に調印し、日本と台湾(中華民国)との国交が回復しました。
この議定書で、中華民国は日本に対する損害賠償請求権を放棄したことは、蒋介石総統の功績です。
また、国共内戦では、台湾に移った国民政府を守るために、日本からは有志の軍が台湾に渡り、台湾に対する中華人民共和国に備えました。
その後の日台関係は順調に進みましたが、日本国内では、中共政権との国交樹立を推進する機運が徐々に高まりました。
1972年のニクソン訪中は日本に衝撃を与え、田中角栄政権は、中国大陸を支配する中華人民共和国政府を「中国の唯一の合法政府」と承認し、国交を樹立しました(日中国交正常化)。
これにより、中華民国外交部は即日、対日断交を宣言したのです。
しかし、その後も民間レベルの交流が続きました。経済的な交流はいうまでもありません。
1999年の台湾大地震では日本が緊急援助隊を一番で送り、最大規模の援助活動を実施しました。
翌年には、台湾高速鉄道計画で、日本企業連合による「新幹線システム」導入が決定しました。
台湾の人は、日本に対してどのようなイメージを持っているのでしょうか?
ガイドのキュウさんによれば、「台湾の人は、日本に対して悪いイメージはない」ということでした。
戦時中も、一部の抗日行動をのぞけば紛争はわずかでした。
それに対して、日本が建設したライフライン等の整備や制度の導入は、台湾の発展に大きく貢献しました。
これには、親日だった孫文や、蒋介石の影響もあることでしょう。
ここで、今日訪れた、蔣介石の顕彰施設である、中正紀念堂を紹介しましょう。
中国の伝統的な宮殿陵墓式です。
敷地面積は25万平方メートルにのぼり、日本統治時代の山砲隊、歩兵第一連隊の軍用地跡地だったそうです。
本堂のほかに国家戯劇院や国家音楽庁、公園広場、休息所や回廊、庭園などがあります。
昨日は、小学生が遠足に来ていました。
この「遠足」も、おそらく日本の統治時代に根付いた行事です。
エレベーターで上がると、蔣介石の巨大な像がありました。
やはり、微動だにしない兵が守っていました。
天井には、国章である「青天白日」の徽章が描かれていました。
台湾の人における、蒋介石の大きさがたいへんよく分かりました。
このブログでのシリーズ記事は・・・
台湾レポート-1-
台湾レポート-2-
台湾レポート-3-
台湾レポート-4-
台湾レポート-5-
台湾レポート-6-
台湾レポート-7-
台湾レポート-8-
台湾レポート-9-
台湾レポート-10-
台湾レポート-11-
台湾レポート-12-
台湾レポート-13-
台湾レポート-14-
台湾レポート-15-
台湾レポート-16-
台湾レポート-17-
台湾レポート-18-
台湾レポート-19-
台湾レポート-20-
台湾レポート-21-
台湾レポート-22-
台湾レポート-23-
台湾レポート-24-
台湾レポート-25-
台湾レポート-26-
台湾レポート-27-
台湾レポート-28-
台湾レポート-29-
台湾レポート-30-
台湾レポート-31-
台湾レポート-32-
台湾レポート-33-
台湾レポート-34-
台湾レポート-35-
台湾レポート-36-
台湾レポート-37-
台湾レポート-38-
このブログでの他のシリーズは・・・
さわやか中欧 見てある記 -1-
ベトナム・ホーチミン みてある記 -1-
タイ・バンコク 見てある記-1-
シェムリアップみてある記 -1-
香港に来ています
平成25年度北方四島交流訪問事業 -古釜布湾-