江南市縁の七人の戦国武将-生駒利豊-
江南市縁の七人の戦国武将 -4-
藤まつり会場では、毎年恒例の江南市縁の七人の戦国武将展が開かれています。
その七人の武将を順に紹介しています。
記載事項には諸説あるものも含まれていますのでご了承ください。
第4回は生駒利豊です。
生駒氏からは、利豊だけでなく、父の家長や、尾張生駒家中興の祖といわれる6代利勝も紹介したほうがよいでしょう。
まずは、吉乃の兄、家長です。
家長は、初めは犬山織田氏についていました。
妹の吉乃が信長の側室に迎えられたことにより、父と共に信長の家臣となったのです。
信長に従い、浮野の戦い、桶狭間の戦いなど次々に軍功を挙げました。
信長創世期の家臣だったのです。
その後、家長は、甥に当たる信雄、秀吉と次々に主を替えてきました。
家長の死後は三男の善長が継ぎ、その後、五男の利豊が継いだのです。
利豊は、幼い時より豊臣秀次に仕え、小田原の役に16歳で従軍。後に豊臣秀吉に仕えました。
関ヶ原の戦いでは福島正則の陣に属し、その後、松平忠吉(家康の四男。清洲藩主)に仕えました。松平忠吉が亡くなると、尾張藩主となる家康の九男徳川義直に仕えたのです。
以後、子孫は尾張藩士として幕末まで続いたのです。
ちなみに、三男の善長は、その後妹の嫁ぎ先蜂須賀家に招かれ、子孫は徳島藩の代々中老を務める家柄として続きました。
宝頂山墓地(下写真)には、生駒氏の4代家長・5代利豊が葬られています。
中央の家型墓地が利豊(およびその妻)です。96歳という長寿でした。
奥が家長夫妻です。
6代利勝は、1629年生まれ。尾張藩士肥田孫左衛門の長子で、母は生駒利豊の娘です。
生駒家に養子として迎えられました。
尾張藩2代藩主徳川光友、3代藩主綱誠に仕え、尾張生駒家中興の祖といわれています。
利勝といえば、富士塚を建てたことでも有名です。
初代家広からの由緒と武勲を後世に伝えるため、1682年、石碑に刻んで亀形の台石の上に立てました。当時、亀形の台座は特別の人しか使うことはできませんでした。
碑詞は、あの林羅山の孫、信篤の作です。
富士塚の碑文を紹介します。
あと2枚あります。
続きは、(社)生駒屋敷 歴史文庫
http://www.ikoma-yashiki.com/?page_id=75
冨士塚碑銘(原文)
冨士塚碑銘(書き下し)
冨士塚碑銘(現代語訳)
これは前方後円墳の上に建っており、この古墳は、小牧長久手の戦いの折りに、信雄と家康が秀吉軍の動向を眺めるために登っています。
次回も利勝について紹介します。