レジメの見出しは1~3は次のものです。
1 文禄2年11月13日、 前野但馬守長康高麗より名護屋に帰陣
2 前野長康 関白秀次の筆頭後見役となる
3 太閤秀吉と関白秀次の対立
ここでは、内容の概略をお話いただきました。
秀次と秀吉の対立の原因は、秀次が文禄の役で疲弊した大名等にお金を貸したことにありました。
「武功夜話」では、秀次の優しさ故にということでした。
しかし、例えば、津本 陽の「夢のまた夢5」では次のように書かれています。
http://www.geocities.jp/takesanwind/book/tumoto/yumenomatayume52.html##1
秀次破滅の原因は関白の地位に異常な執着をあらわしたから
<本文から>
石田三成ら秀吉奉行衆は、秀次が将来お拾に政権を継承させる意志がないと見ていた。
秀吉の死後、お拾とのあいだに武力衝突が起きないとはいえない。秀吉も、ついに秀次を見放すことになった。将来に禍根を残すより、いまのうちに処分するよりほかに方途がないと判断したのである。
秀次は秀吉にいつ見放されるかと恐れるあまり、自らの地位をかためようとさまざまの術策を試み、いっそう破滅の淵に近づいてゆく。
秀次の妻一の台局の父萄亭晴季は、婿に進言した。
「太閤との疎遠をもとへ戻すには、禁裏のおとりなしを頼まれるがよかろうと存じまするが、いかがでどざろう」
秀次は晴季の意見に同意し、朝廷へ白銀五千枚を献上した。現代の価値にすれば三百億円である。
この事実はたちまち石田三成らの探知するところとなった。朝廷側の斡旋がすすめられるまえに、秀次への疑惑が深まった。
「関白さまはご謀叛なされるやも知れぬ。禁裏にたいそうな金銀を献上してお味方を願ったそうな」
不穏な情報を得た三成は、ただちに秀吉にその旨を言上した。秀吉はさきに秀次から金子を借用した諸大名が、彼に対し忠誠の誓書を差しだしたとの噂をも聞いていたので、ついに決断した。
「事の虚実を乱すべし。このままには打ちすておけぬだわ」
秀吉の命を受けた三成と増田長盛は、七月三日に聚楽第へおもむき、謀叛を詰問した。
三成らは数百の軍兵をともなってゆき、聚楽第では家老木村常陸介の指図で、輪火縄に点火した足軽鉄砲隊が待機していたといわれる。
------引用終わり-----
立場が変わると、これほど見方が変わるのかと驚きです。
秀吉側の記録のみで語られていた歴史が、秀次側の目で見た歴史が出たことで、真実に近づく入り口をくぐったことを喜ばしく思います。
結論は出ないかもしれませんが、検討していくことは重要です。
「武功夜話」の話の合間に、ちょっとした脱線話もありました。
吉田氏は、会社を経営しておみえです。
中国・広東省に工場があるのですが、最近、中国政府から、人件費の関係で内陸(350㎞北部)へ移ってくれと依頼されたそうです。
そこで、「中国政府は難しい」という話をされました。
1割の従業員を連れて行くのですが、「20ヶ月かけて移してほしい」と言われたからです。
確かに、エッと驚く話ですね。
中国で、イギリス人に『三国志』では誰が好きか尋ねられたそうです。
吉田氏は、「諸葛孔明」だと言いました。多くの日本人がそう答えると思います。
「あなたはどうか?」とイギリス人に尋ねると、「曹操」と答えました。最後には魏が統一したからという理由です。
そして中国の人は口をそろえて「関羽」といいます。忠義の士で決して裏切らないからだと言うことでした。確かに、中華街へ行くと、関羽は信仰の対象になっています。
こうしたお話も興味深く聞くことができました。
明日に続きます…
1 文禄2年11月13日、 前野但馬守長康高麗より名護屋に帰陣
2 前野長康 関白秀次の筆頭後見役となる
3 太閤秀吉と関白秀次の対立
ここでは、内容の概略をお話いただきました。
秀次と秀吉の対立の原因は、秀次が文禄の役で疲弊した大名等にお金を貸したことにありました。
「武功夜話」では、秀次の優しさ故にということでした。
しかし、例えば、津本 陽の「夢のまた夢5」では次のように書かれています。
http://www.geocities.jp/takesanwind/book/tumoto/yumenomatayume52.html##1
秀次破滅の原因は関白の地位に異常な執着をあらわしたから
<本文から>
石田三成ら秀吉奉行衆は、秀次が将来お拾に政権を継承させる意志がないと見ていた。
秀吉の死後、お拾とのあいだに武力衝突が起きないとはいえない。秀吉も、ついに秀次を見放すことになった。将来に禍根を残すより、いまのうちに処分するよりほかに方途がないと判断したのである。
秀次は秀吉にいつ見放されるかと恐れるあまり、自らの地位をかためようとさまざまの術策を試み、いっそう破滅の淵に近づいてゆく。
秀次の妻一の台局の父萄亭晴季は、婿に進言した。
「太閤との疎遠をもとへ戻すには、禁裏のおとりなしを頼まれるがよかろうと存じまするが、いかがでどざろう」
秀次は晴季の意見に同意し、朝廷へ白銀五千枚を献上した。現代の価値にすれば三百億円である。
この事実はたちまち石田三成らの探知するところとなった。朝廷側の斡旋がすすめられるまえに、秀次への疑惑が深まった。
「関白さまはご謀叛なされるやも知れぬ。禁裏にたいそうな金銀を献上してお味方を願ったそうな」
不穏な情報を得た三成は、ただちに秀吉にその旨を言上した。秀吉はさきに秀次から金子を借用した諸大名が、彼に対し忠誠の誓書を差しだしたとの噂をも聞いていたので、ついに決断した。
「事の虚実を乱すべし。このままには打ちすておけぬだわ」
秀吉の命を受けた三成と増田長盛は、七月三日に聚楽第へおもむき、謀叛を詰問した。
三成らは数百の軍兵をともなってゆき、聚楽第では家老木村常陸介の指図で、輪火縄に点火した足軽鉄砲隊が待機していたといわれる。
------引用終わり-----
立場が変わると、これほど見方が変わるのかと驚きです。
秀吉側の記録のみで語られていた歴史が、秀次側の目で見た歴史が出たことで、真実に近づく入り口をくぐったことを喜ばしく思います。
結論は出ないかもしれませんが、検討していくことは重要です。
「武功夜話」の話の合間に、ちょっとした脱線話もありました。
吉田氏は、会社を経営しておみえです。
中国・広東省に工場があるのですが、最近、中国政府から、人件費の関係で内陸(350㎞北部)へ移ってくれと依頼されたそうです。
そこで、「中国政府は難しい」という話をされました。
1割の従業員を連れて行くのですが、「20ヶ月かけて移してほしい」と言われたからです。
確かに、エッと驚く話ですね。
中国で、イギリス人に『三国志』では誰が好きか尋ねられたそうです。
吉田氏は、「諸葛孔明」だと言いました。多くの日本人がそう答えると思います。
「あなたはどうか?」とイギリス人に尋ねると、「曹操」と答えました。最後には魏が統一したからという理由です。
そして中国の人は口をそろえて「関羽」といいます。忠義の士で決して裏切らないからだと言うことでした。確かに、中華街へ行くと、関羽は信仰の対象になっています。
こうしたお話も興味深く聞くことができました。
明日に続きます…