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11月14日は新聞休刊日

2016-11-14 05:34:39 | 社説を読む
今日は新聞休刊日なので、昨日のコラムを紹介します。


朝日新聞
・ ひと言の願いをかなえてくれる神様として親しまれる奈良・葛城山の一言主(ひとことぬし)神社。イチゴンさんと呼ばれる神社にちなみ、願いごとをつづる「はがきの名文」コンクールが開かれた。2回目となる今年は応募2万7千点。胸に響いた3作を紹介したい

▼奈良県明日香村の小5綿本優太君(10)は親友との仲たがいログイン前の続きを書いた。「謝りたい気持ちと謝ってきてくれるかなという期待が行き交って、決心がつかない」「『ごめんな』と言える勇気が出せますように」。願いかなって後に仲直りできたそうだ

▼忘れがたい夕食の一幕をつづるのは、茨城県常総市の公務員笠原正宏さん(54)。「ワガママ言う君らに怒った妻が夕食作りをボイコット。食卓に置かれた納豆3個。トイレに籠(こも)る妻」と書きおこす

▼「息子がリュックを背負う。黙って出て行き戻ったその手に弁当一つ。トイレの前へ。食べないと死んじゃうと弁当差し出す小一男子」。感激した妻がトイレで泣き、以来その日は感謝の念を刻むよう夕食にあえて弁当を食べる日になった

▼京都府綾部市の村上多慶子さん(88)は30年前に亡くなったご主人に一筆。「いつお迎えに来て戴(いただ)いてもいいですよ」「でもねー。明日は来ないでくださいね。明後日(あさって)も来ないでくださいね。明明後日(しあさって)も来ちゃいやですよ。またお手紙します」

▼手書きの文面が息づかいや心の温度を伝える。ご多分にもれず当方もパソコンやスマホで打ってばかりいるが、大切な人への便りは手書きに限ると思い直した。


毎日新聞
・ 戦乱で亡くなった人々の魂を浄土へと導く。12世紀、奥州(おうしゅう)藤原氏の初代清衡(きよひら)が中尊寺(ちゅうそんじ)を造営した目的だった。岩手県の「平泉」が世界文化遺産に登録されたのは5年前のこと。テロのニュースに触れる時、かの地を思う

▲平泉文化遺産センターの館長、大矢邦宣(おおやくにのり)さんは世界遺産登録の推薦書作成委員を務め、登録に尽力した。一昨年に69歳で亡くなるまで平泉研究への情熱を失わなかった。推薦にあたり、平泉文化の根本にある「浄土思想」を国際記念物遺跡会議にどう理解してもらうかが課題だった

▲大矢さんは「浄土」を「土を浄(きよ)める」と解釈した。土とは国土。つまり清衡はあの世の極楽浄土ではなく、現世に争いのない浄土を実現しようとしたのだと考えた。日本の世界遺産候補地として初めて「落選」を経験し、浄土思想が分かりにくかったのではと批判も出た。だが信念は揺るがなかった

▲生前に「浄土の定義とは一言で表現すれば理想郷」と語っていた。同じ岩手出身の宮沢賢治は旧制中学時代に平泉を訪れている。後に自分の中の理想郷を「イーハトーブ」と名付けた。岩手には平和を願う風土があるのかもしれない

▲パリの同時テロからきょうで1年になる。テロの続く現世も戦乱の時代であろう。浄土の平和思想を世界へ発信したいと大矢さんは考えていた。世界遺産登録後、海外から訪れる人も増えている。寺や庭の見事さだけでなく、思想も受けとめてほしいと泉下で思っているだろう

▲信仰を集めた金鶏山(きんけいさん)を望む高台に大矢さんの墓はある。平和を守るとりでのように見える。墓石には「現世浄土を願い」と刻まれている。


日本経済新聞
・ そのとき、長年の謎が解けた。敦賀半島に残る出産のための小屋を調べて地元の人の話を聞くうち、ウブスナという言葉の語源をつきとめる。大家の柳田国男がどうしても分からないと嘆いた不思議な言葉だった。民俗学者の谷川健一さんが本紙に書いた体験談である。

▼納屋での出産は古くからの風習で、地域によっては昭和40年代ぐらいまで残っていた。海浜の砂を敷いてムシロや布団を運び、分娩する。その砂の名を聞くと、小屋の持ち主は「ウブスナ」と答えた。谷川さんは驚いて、謎の言葉が「産小屋(うぶごや)の砂」だと気づく。これが土地の神、安産の神「産土神(うぶすながみ)」の起源になったようだ。

▼七五三シーズンである。今日、参詣する家族も多いだろう。地域の産土神に詣でて、3、5、7歳の子供の成長を祈る。江戸時代に武家から町家に広がった。当時は栄養や医療も十分でなく、無事に育つのも難しかった。親は懸命で、どの神社も混雑した。参道にはアメの露店などが並んで、ずいぶんにぎやかだったらしい。

▼少子化が進んだ今の親は、もっと熱心かもしれない。その中身もかなり変化した。着物やドレスで着飾り、家族で記念撮影する。神社に参るよりも、写真が優先という例も多い。それでも成長の無事を願う親心は変わらない。いにしえの海の砂、ウブスナから始まった習俗が、見えないところで、遠く現代まで続いている。


産経新聞
・ ある青年が新聞の連載小説で文壇に現れた。当時19歳の作家は「畠芋之助(はたけいもすけ)」と名乗った。作品の不出来が理由か、人を食った号が悪いのか、連載は読者の不興を買ったらしい。明治25(1892)年のことである。

 ▼後に別名で『高野聖』などの秀作を世に出したその人は、「泉鏡花」の名で知られている。鏡に映る花のごとく手に取れぬ美を言葉にせよ。「鏡花水月」にあやかったペンネームは、師の尾崎紅葉が付けたとされる。「文士かくあるべし」の親心に、弟子は応えた。

 ▼本に装丁があるように、ペンネームは作家に社会的な命を与える正装だろう。原稿用紙にあった「平岡公威(きみたけ)」の本名は線で消され、その横に「三島由紀夫」と記されていた。16歳で書いたデビュー作『花ざかりの森』など初期4作品の直筆原稿が見つかったという。

 ▼三島を文壇に導いた同人誌は、伊豆の修善寺で編集会議を開いていた。ペンネームは乗換駅の「三島」から仰ぐ富士の「雪」に由来する。三島は後に「叙情詩風」で赤面したと吐露したが、老熟の筆致による『花ざかり-』が世に出た時点で成功は約束されていた。

 ▼実はデビューする前、虚弱で色白だった平岡少年が「青城散人(あおじろさんじん)」の号を名乗っていたことを、嵐山光三郎さんの『文人悪食』で知った。後年、精神や言葉の対極にある肉体をボディービルで得た三島にとって、「行為のみが最後の目標」になったと嵐山さんは説く。

 ▼自衛隊市ケ谷駐屯地に乗り込むのは昭和45年11月25日である。〈益荒男(ますらお)がたばさむ太刀の鞘(さや)鳴りに幾とせ耐へて今日の初霜〉の辞世を残し、自ら45年の生涯を結んだ。麗しい言葉の担い手が、その体内に宿した秋霜の激しさ。名の通りには生きられぬ人生の悲哀に、ため息が出る。


中日新聞
・  作家の才能について、「熱海殺人事件」などの劇作家つかこうへいさんがこんなことを書いている。それは「なにがなんでもハッピーエンドにする力」なのだという

▼どんな苦難の物語であろうと、必ずや幸せな結末に導く。現実は希望や努力が実を結ぶことは悲しいほどに少なく、幸せな結末など信じにくい時代かもしれぬ。それでも、過酷な現実にあらがい「ハッピーエンドの形が決まるまで作り続けなければならない」。劇作家としてのつかさんの決意であろう

▼その言葉を思い出させる演説を聞いた。ヒラリー・クリントンさん。米大統領選での敗北を認める演説会でこんなことを語った。「これを見ている、すべての女の子たちへ。あなた方はみんな価値や力がある存在。そして、夢を実現するのにふさわしい存在。そのことは疑わないで」

▼二〇〇八年の大統領選では、オバマさんに「準決勝」で敗れ、今回はトランプさんに「決勝」でうっちゃられた。女性大統領の誕生を阻む「ガラスの天井」は、少しずつしかひびが入らないものらしい

▼六十九歳。もう大統領選には出馬しないと聞く。頂を目指した長い旅路もここまでである。努力はついぞ実らなかった

▼されど、である。あの演説を聞いた女の子の誰かがその夢をかなえる日が必ず来る。それはクリントンさんにとっても、「ハッピーエンド」の日に違いない。

※ いつも同じことをコメントしていますが、どれも味があります。
 決められた文章量に、主張点を入れつつ、ひねりもきかせています。
 ぜひ味わってみましょう。


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