始皇帝はなぜ等身大の兵馬俑を造らせたのか?その謎を解く展覧会が上野の森美術館にて開催中!
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- 展覧会情報
1つ目です。馬を操り、鹿や虎の狩をしていた秦の人だった始皇帝は、本物の馬や鹿を埋葬すると、そこに等身大より一回り小さなサイズの飼育人の陶俑を作って添えました。そして後に本物の馬から同じサイズの馬の俑を埋めるようになり、それに合わせた等身大の人間の俑が作られるようになります。そもそも始皇帝の兵馬俑坑において、はじめて等身大の馬と兵士の陶の俑が埋められましたが、そこには馬を尊び、人を組み合わせるという秦の文化が反映されていました。
2つ目は西方の文化の影響です。始皇帝の曽祖父の時代、マケドニアのアレキサンダー大王が西北インドへ進軍すると、人間を等身大でリアルに彫刻するギリシア文化が東方へと伝えられます。それが中国まで伝わったという直接の資料こそないものの、戦国時代の秦の墓からギリシア神話のディオニソスを描いた装飾板が見つかったり、始皇帝陵の陪葬墓から金銀のラクダ俑が出土するなど、西方文化の影響があったこと明らかになりつつあります。
最後は始皇帝本人の強い遺志です。中国の歴史書『史記』には、始皇帝が13歳で秦王に即位した翌年から自らの陵墓を造りはじめたと記されていますが、その記述に反して、秦王が29歳になってから陵墓を築いたという史料が出ています。このことから秦王は戦乱の中で陵墓を造営しはじめ、39歳で皇帝となり、50歳で亡くなる晩年に、人間をリアルに表現した兵馬俑を埋めることを命じたと推測されます。