ものづくり中部の革新者たちⅢ より 村松彦七を紹介します。
去る2022(令和4)年9月10日(土)に名古屋都市センター(金山南ビル内) 11階「まちづくり広場・企画展示コーナー」で行われた、第17回パネル展 での学びを振り返ります。
ここから http://csih.sakura.ne.jp/panerutenn.html
今回は、村松彦七 常に生産の増殖、事業興起を企画す -名古屋産業界に新風を吹き込む-
ものづくり中部の革新者たち Ⅲ
1. 革新実業家 (3)
常に生産の増強、 事業興起を企画す -名古屋産業界に新風を吹き込む-
村松彥七 (1845~1385) は、明治維新後、 その幅広い識見と行動力によって各界の信頼を集め、 七宝会社、 愛知物産組、 名古屋紡績など各種事業を興起した人物である。
村松彦七は、 1845 (弘化2)年4月、東京神田日本橋に生まれた。 1871 (明治4)年、為替商小野組に入り、 同組が額田県 (岡崎) に支店を設けたとき、 岡崎に赴任した。額田県が愛知県となってから、 名古屋支店の支配人となり、県の為替方を担当した。 1874 (明治7年)に小野組は事業に失敗して閉店となった。
■ 七宝会社の設立
村松彦七は、 1876 (明治9)年1月、七宝製造販売の七宝会社の支配人となる。
同社は、 1871 (明治4) 年3月、 村松が豪商岡谷惣助らに勧めて設立した名古屋初の会社である。 入社後、 米国 フィラデルフィアで開催された万国博に出張し、七宝燒製品は優等賞を得、販路を拡大した。 1878(明治11)年2月開催のパリ万博にも七宝焼製品を出品し、 ジャポニズムブームが高まる中、高い評価を得た。 このとき、日本側の総裁を務めた松方正義の知遇を得、誘われて欧州各国を視察している。 1883(明治16)年10月のオランダ、アントワープ博では同国皇帝から勲章を得たものの、不況の中で赤字を抱え、七宝会社は閉鎖に至る。
■織物会社・紡績会社の設立
1878(明治11)年には、 村松の尽力によって、結城縞の製織する愛知物産組が設立された。 士族子女を雇い入れて、時代の要請にも応え、 社長祖父江源治郎のもとで発展した。 また、 1881 (明治14) 年3月に設立された名古屋紡績は、 村松彦七がフランス万博での見聞を踏まえ、名古屋財界人に周旋し、 名古屋地区初の近代紡績会社として、 1881 (明治14) 年1月設立され、 1885 (明治18) 年1月、 堀川端の正木町で開業した。
村松の活躍は東京にも及び、 1883(明治16)年1月には横浜正金銀行の取締役にも就任している。
1885 (明治18) 年、41歳で惜しまれながら逝去している。 彼の存命が長ければ、 奥田正香と並ぶ人物として名古屋政財界で活躍しただろうと言われている。(浅野伸一)