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市内巡りシリーズ-10- 草井の渡しと百人一首

2009-08-04 06:34:38 | 郷土の歴史
梅雨が明けました。今朝も蝉が短い夏を取り戻そうと思うのか、元気に鳴いています。

 すいとぴあ江南の4階にはトレーニングルームがあります。雨で外を走れない日には、この4階でトレーニングをしています。

 この土日も通いましたが、窓の外を見ると、正面に愛岐大橋。
 手前に草井の渡し跡、そして対岸には前渡不動を見渡すことができます。

 ここが、まさに、承久の乱の時に、北条泰時率いる10万の軍勢が渡って都へ攻め上った地なのです。

 当時の木曽川は、おそらく細い川が幾筋にも分かれていたのでしょう。
 そこを、騎兵の大群が北進する様子を想像していました。

 もっとも東海道は細いので、かなり細長い行列だった可能性が高いと思われますが…。

 承久の乱は、1221年に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた戦乱です。
 歴代天皇の中でも特に優秀な一人といわれた後鳥羽上皇は、公家勢力の回復を目指して、3代将軍実朝の死をきっかけに討幕計画を進め、執権北条義時追討の兵を挙げましたが、北条政子の演説に奮い立ち団結した幕府軍に大敗しました。

 これまでの鎌倉幕府、すなわち武家政権は東国支配のみでしたが、これにより、全国に力を及ぼすようになりました。

 首謀者の後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ流されました。

後鳥羽上皇は、隠岐島で次の歌を詠みます。百人一首にも選ばれています。

  人ひとを惜をし 人ひとも恨うらめし 味気あぢきなく
    世よを思おもふゆゑに もの思おもふ身みは

なぜ、藤原定家は百人一首にこの歌を選んだのか?

 その裏には、おそるべき理由がありました。
 『 絢爛たる暗号 ― 百人一首の謎を解く 』 (集英社文庫)は、まさにミステリー。
 百首に秘められた暗号を、著者 織田 正吉氏が解き明かしていきます。

 超お薦めの一冊です。ぜひ、お読みください。

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