写楽の正体は!?-NHKスペシャル-
社楽のブログとしては、写楽にコメントしないわけにはいけません。
昨晩の、浮世絵ミステリー 写楽
~天才絵師の正体を追う~ はとても興味深いものでした。
番組HPには、番組予告動画と共に、次の説明があります。
ギリシャ・コルフ島で、写楽の肉筆画が発見された。
ギリシャ人外交官が20世紀初頭のパリで収集したコレクションの中に埋もれていたのだ。
新発見の肉筆画は、写楽の実像に迫る重要な手がかりを与えてくれることになった。
写楽ほど謎に包まれた絵師はいない。
江戸中期の画壇に突如現れ、大胆な構図の役者絵で鮮烈なデビューを飾るが、わずか10ヶ月活動しただけで忽然と消えた。
歴史資料には、その素顔を伺わせる記録がほとんど残されていない。
「写楽は誰だったのか?」。
その正体を巡って、歌麿説、北斎説など40近い数の仮説が提起され、日本美術史上最大の争点のひとつとなってきた。
だが、ギリシャの肉筆画が、その論争に終止符を打とうとしている。
謎の絵師・写楽の正体とは?
http://www.nhk.or.jp/special/onair/110508.html
もう少し詳しく説明しましょう。
東洲斎 写楽は、江戸時代の浮世絵師です。
寛政6年(1794年)から翌年にかけての、たった10ヶ月の間に、約145点余の錦絵作品を出版した後、浮世絵の分野から姿を消してしまいました。
北斎が70年以上も絵を描き続けてきたのに対して、写楽はわずか10ヶ月。
誰かが、一時、写楽と名乗って描き、その後は描くのをやめたのだと思われるのですが、その誰かの本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明だったのです。
ところが、ギリシアで次の肉筆画が発見されたのです。
『四代目松本幸四郎の加古川本蔵と松本米三郎の小浪』(ギリシア国立コルフ・アジア美術館収蔵)
これにより、肉筆の線の検証によって、写楽の線は、他の有名画家のだれのものとも一致しないことが分かりました。
もう1人の候補、版元の蔦屋重三郎説も、蔦屋重三郎死後の写楽の肉筆画が他に見つかっていることから、否定されました。
残る説は、阿波の能役者斎藤十郎兵衛(1763年? - 1820年?)です。
『江戸名所図会』の斎藤月岑が1844年に『増補浮世絵類考』で、写楽は八丁堀に住む「阿州侯(阿波徳島藩の蜂須賀家)の能役者」である斎藤十郎兵衛だと記しています。
八丁堀には、当時蜂須賀藩の江戸屋敷がありました。
古地図にも、その名があり、能のワキを代々世襲で担当する家柄でした。
と言っても能ではほとんど役目はありません。
しかし、能役者は武士階級であり、武芸以外のことをすることは厳しく禁じられていました。絵を描くことなどもってのほかだったのです。
東洲斎写楽という名前から見てみると、江戸の東の洲ということで、八丁堀は当てはまります。
さらには、斎藤十(郎兵衛)を並び替えると、藤・十・斎 = とう・じゅう・さい
→ 東・洲・斎 になるではありませんか!
姓を入れ変えて、「写すのを楽しむ」写楽と名づけるとは、よく考えた名前です。
NHKスペシャルはまだ続きました。
続きは、また明日・・・
社楽のブログとしては、写楽にコメントしないわけにはいけません。
昨晩の、浮世絵ミステリー 写楽
~天才絵師の正体を追う~ はとても興味深いものでした。
番組HPには、番組予告動画と共に、次の説明があります。
ギリシャ・コルフ島で、写楽の肉筆画が発見された。
ギリシャ人外交官が20世紀初頭のパリで収集したコレクションの中に埋もれていたのだ。
新発見の肉筆画は、写楽の実像に迫る重要な手がかりを与えてくれることになった。
写楽ほど謎に包まれた絵師はいない。
江戸中期の画壇に突如現れ、大胆な構図の役者絵で鮮烈なデビューを飾るが、わずか10ヶ月活動しただけで忽然と消えた。
歴史資料には、その素顔を伺わせる記録がほとんど残されていない。
「写楽は誰だったのか?」。
その正体を巡って、歌麿説、北斎説など40近い数の仮説が提起され、日本美術史上最大の争点のひとつとなってきた。
だが、ギリシャの肉筆画が、その論争に終止符を打とうとしている。
謎の絵師・写楽の正体とは?
http://www.nhk.or.jp/special/onair/110508.html
もう少し詳しく説明しましょう。
東洲斎 写楽は、江戸時代の浮世絵師です。
寛政6年(1794年)から翌年にかけての、たった10ヶ月の間に、約145点余の錦絵作品を出版した後、浮世絵の分野から姿を消してしまいました。
北斎が70年以上も絵を描き続けてきたのに対して、写楽はわずか10ヶ月。
誰かが、一時、写楽と名乗って描き、その後は描くのをやめたのだと思われるのですが、その誰かの本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明だったのです。
ところが、ギリシアで次の肉筆画が発見されたのです。
『四代目松本幸四郎の加古川本蔵と松本米三郎の小浪』(ギリシア国立コルフ・アジア美術館収蔵)
これにより、肉筆の線の検証によって、写楽の線は、他の有名画家のだれのものとも一致しないことが分かりました。
もう1人の候補、版元の蔦屋重三郎説も、蔦屋重三郎死後の写楽の肉筆画が他に見つかっていることから、否定されました。
残る説は、阿波の能役者斎藤十郎兵衛(1763年? - 1820年?)です。
『江戸名所図会』の斎藤月岑が1844年に『増補浮世絵類考』で、写楽は八丁堀に住む「阿州侯(阿波徳島藩の蜂須賀家)の能役者」である斎藤十郎兵衛だと記しています。
八丁堀には、当時蜂須賀藩の江戸屋敷がありました。
古地図にも、その名があり、能のワキを代々世襲で担当する家柄でした。
と言っても能ではほとんど役目はありません。
しかし、能役者は武士階級であり、武芸以外のことをすることは厳しく禁じられていました。絵を描くことなどもってのほかだったのです。
東洲斎写楽という名前から見てみると、江戸の東の洲ということで、八丁堀は当てはまります。
さらには、斎藤十(郎兵衛)を並び替えると、藤・十・斎 = とう・じゅう・さい
→ 東・洲・斎 になるではありませんか!
姓を入れ変えて、「写すのを楽しむ」写楽と名づけるとは、よく考えた名前です。
NHKスペシャルはまだ続きました。
続きは、また明日・・・