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東アジア共同体の幻影-2-

2010-03-05 06:31:02 | 日記
3月3日の中日新聞夕刊、文芸評論家の高澤秀次さんの新聞記事についてコメントしています。

彼の論は、
鳩山首相の「東アジア共同体構想」は、近衛文麿首相の「東亜新秩序構想」という歴史をふまえているかというものです。
過去の日本が「東アジア」という言葉を掲げてしてきたことを、首相はどうとらえているのか?ということだと思います。

それもわかります。
ここでは、新聞記事から離れて、東亜新秩序構想について考えてみたいと思います。


東亜新秩序構想とは、昭和13年11月3日に、近衛文麿:写真(第1次近衛内閣)が発表した日本、満州、支那3箇国についての構想で、大東亜共栄圏構想はここから始まります。



この政治構想を生み出したのは昭和研究会

これは、近衛文麿のブレーンの一人であった後藤隆之助が主宰した政策研究団体で、外交、国防、経済、社会、教育、行政等の各分野にわたる政策集団でした。

参加者には、三木清や内村鑑三の弟子の田島 道治、牛場信彦、尾崎秀実、吉田茂、有田八郎、宇都宮徳馬など、左右を問わず優秀な人材が幅広く集まっています。
(ここに紹介した人はほんの一部です。)

平沼騏一郎など国粋主義の政治家・官僚から「アカ」などの批判・攻撃を受けたほどですら、決して、今でいう軍国主義集団ではなかったのです。
理論的に最も進んだ政体として、ナチス・ドイツに近い型の新政体をめざしていました。

それを、新体制運動といいます。

その結果、大政翼賛会がうまれました。

左右を巻き込んだ左右合同の組織でありながら、結果的には、軍部の方針を追認し、それを支える翼賛体制をつくってしまったのです。

高澤さんは、これらの動きを戦後から見た「侵略行為の合理化」とたとえています。
結果的には、そう取られても仕方がありませんが、当時の人は、いろいろな知恵を出し合い、よりベターだと思われる選択を繰り返してきました。

それが、なぜ、軍部追認になってしまったのか?

そこを考えることが大切だと思っています。

1 コメント

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ナチスドイツ (社楽人A)
2010-03-06 06:46:41
「理論的に最も進んだ政体として、ナチス・ドイツ型政体をめざした」というのはどういうことなのでしょうか?
もう少し詳しく教えてください。
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