にをいがけをさせていただいてると、
人の人生を垣間見させていただくことは多い。
2~3日前に戸別で会った方のこと。
特別にどこかへ出かけていったわけではなく、毎日のように通っている道に立ち並ぶ
道端の家のインターホンを押させてもらっていた。こんなに気軽に押してて
押されるほうには迷惑かもしれないけど、「させてもらおう」と。
82歳の女性は、私が天理教の布教をしていると聞くと、
すぐさまドアを閉めようとしたが、その瞬間に私が言った一言で閉めようとしたドアを
あけてくれ、外へ出てきてくれた。私は自分がなにを言ったのか記憶にない・・・。
店(駄菓子屋)のほうから来る人は多いけど、脇の玄関から来る人は
めったにいなくて、誰だろうと思ったとのことだ。
82歳の女性は、昔、娘が身上のときに
親しい(ある宗教の信仰者)方に「どうしたの、なにかあったの」と声をかけられて相談。
あれよあれよと家の中に祭壇(?)が組み立てられ、拝んでもらうことになる。本来
拝み祈祷のようなものは大嫌いだった女性は、イヤでイヤで仕方が無かったらしいし、
親にも昔からの家の宗教があるのになんで他の事を始めるんだ、と攻め立てられもし、
間に挟まれた女性は、苦悩の中を通られた。きっかけは強制的ではあったけど、
娘の身上は助かったので御礼に本部に一度だけ行って、それっきり行ってないし、
信仰もしてないが、祭壇はそのままらしい。
何十年も喜べないで生きてきた女性の気持ち。喜べないで何十年、喜んでも何十年。
「人の弱みにつけ込まれた」という表現をされてましたが、お道では違うと思う。
助けるほうと助けられるほうの信頼関係がいまひとつ築けていなかったんだろうか。
「教理につくのではなくて人につく」と聞かせてもらうから、お道でいう「丹精」が、
できていなかったのかもしれない、と私の想像ですけど。
長い間、喜べないで通ってきたことは、子供たちに与えるものは大きいと思う。
夫婦仲ほど怖いものはないと聞かせていただく。私もまだまだ陽気ぐらしへ向かう
街道を親の声を頼りにとぼとぼと歩いている道中。
自分の癖性分に悩みながらも喜ぶ努力をしてます。
そう丹精をして頂いてきているのだと思わせてもらうから。
なんて、よく分かってるようなこと書かせてもらってますけど
お道は、拝み信仰ではないから、、
実動しなくては何も変わってこないから大変だーー。
女は嘆かない口説かない・・・あとひとつなんだっけ。。
・・・今日もなんとか通りましょうかねー。
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