11月8日分の記事を書いてて思ったんだけど。
拝殿奉仕って・・私の場合だけど、
本音と建て前が使い分けられないと務まらないなって。
私だって、とことん信心できている訳じゃないから、
つい自分の本音を言ってしまいそうになったり、言っちゃったり。
それが良かった場合もあるかもしれないけど、
本音ばかりで言っていたら、人を丹精どころじゃなく・・・・
自分の思いをただ発散させているだけになってしまうのだろう。
いろんな人と話をさせてもらいながら、いろんな思いを経験して、
本当に拝殿って、奉仕者の方が理を頂くのだなって、つくづく思ったよ。
私は本音で話したい方です。
時には人を傷つけちゃうこともあるかもしれないけど
最近はそれですごく困ったという思いも少ないです。
ただ、「言えないこと」はいっぱいありますね。
本音か、もしくは言えないので時期を待つか・・。
台詞で、同じような言葉なのに、
なぜか人の心に響くものとそうでないものの違い、
というのを聞いたことがあります。
心に響く台詞というのは、その人自身の
経験や実感から来ているものなのだそうです。
そういう土台のある台詞には、何か重さがあるんだって。
時と場合で、仕方ないときもあるかもしれませんが、
建前だけで自分の気持ちが伴っていない言葉って、
いくら話しても上滑りするような気がするんですけど、
どうでしょうかね。
建前をいかに自分の中に取り入れて、消化して、
自分のもの(本音)にしていくかってことなのかなと
思ったりしています。
あと、その本音の部分でも、いろいろなものがあるから、
その中のどの部分を話すのか、話したらいけないのか、
時と相手によってうまく使い分けるのが
技術なのかなと思ったりしてます。
さなさんみたいに自分の表現できにくい気持ちが、
言い表せたらいいのだけど。
さなさんは、ズバリ言えるのですごいなって思う。
コメントの最後の文章の塊の部分が、
私のいいたいことです。
技術ですよね。
それがなかなか難しいというか分らない。
失敗しても構わないと言うから、思い切ったことを言ってもいいんでしょうが。
相手のことを思えば、なにを言っても許してもらえるわけじゃないし。
拝殿っておやの思いを伝える場所だし、お役目だと思うんですよ。でも、自分が親の思いをよく分っていなかったりするので、実感をこめて言えないですね。
「私自身もよく分らないの、まだ」
みたいなことを加えたりします。
逆の立場になったとき、
確かに拝殿先生が言ってくれている言葉が、
『これこれなんだよ、こうしなきゃあね』
みたいなただの建て前の話だったら、聞けないですね。前に座っているのが苦痛になってきます。
中座する勇気もないんだけど。
本音も建て前も一緒なんだなって実感します。
あ、、最近、2個中座したんだった!!
3人で話を聞いているときで、途中参加だったんですけど、話が見えなくて。。とにかく苦痛で時間が惜しくなったので中座しました・・・こういう時もたまにはあるかもです。あと2人、聞いてるから大丈夫かなって。
私も上滑っているかもね。苦笑
上滑りしたり、暴投したり、傷つけたり、
そんなことを繰り返しながら、
だんだんと、
投球で言えば、振りかぶってから、
ちょっと方向を変える、球種を変えるみたいな、
微妙なことができるようになるのかなって思います。
相手の表情とか見ながら。
そして今も、ちょっと微妙な方が
拝殿にいらしてます。
主人が相手をしてくれてますが・・。
日々勉強でございます(^^ゞ
会長さんが拝殿で奥様がPC。
想像できるってもんです。
いまのうちだけでしょう。