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●27-①対策として、森鴎外「北条霞亭」につづき、「伊沢蘭軒」で、文章題の実践問題を作成してみました。これも10回程度連載する予定です。ご感想やご意見もぜひお寄せください。
●文章題の回答訓練にお役立てください・・・
・ポイント①文意・文脈や(注)から該当する漢字や熟語が思い浮かぶようにする。よく文章と(注)を読んでください。
・ポイント②80~90%程度は回答できるレベルだと思います。水準以下だった場合は、他分野の訓練もあわせ注力してください。
・ポイント③公開済みの「26-③対策」も依然として有効ですので、復習用にぜひご活用ください。
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●鴎外歴史文学全集 第6巻~第8巻 「伊沢蘭軒」(史伝:蘭軒とその二子の生涯を細叙)より。
●伊沢 蘭軒(1777年~1829年) 江戸時代末期の医師・儒学者。備後福山藩医の子として江戸の本郷に生まれた。儒学・医学・本草学を学んで福山藩に仕えた。著名な漢詩人菅茶山や学者の頼山陽・作家の大田南畝・書家の亀田鵬斎・考証学者の狩谷棭斎など多くの文人と親しかった。
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<文章題その18>
(その七十七)
・・・「公宴不陪朝不坐」の句は大いに意義がある。阿部侯が宴を設けて群臣を召しても、独り蘭軒は趨くことを要せなかつた。わたくしはこれを読んでビスマルクの事を憶ひ起す。渠は一切の燕席に列せざることを得た。わたくしは彼国に居つたが、いかなる公会にんでも、鉄血宰相の面を見ることを得なかつた。これを見むと欲すれば、議院に往くより外無かつたのである。渠は此の如くにして
ショウリ(燮 理)の任 を全うした。蘭軒は同一の自由を
允(ゆ る) されてゐて、此に由つて
コウシュウ(校 讐) の業に専にした。人は或は此言を聞いて、
ヒギ(比 擬) の当らざるを嗤ふであらう。しかし新邦の興隆を謀るのも人間の一事業である。古典の保存を謀るのも亦人間の一事業である。ホオヘンツオルレルン家の名相に同情するも、阿部家の
ヘキジュ(躄 儒) に同情するも、固よりわたくしの自由である。
「朝不坐」も亦阿部侯の蘭軒に与へた特典である。初め蘭軒は病後に館に上つた時、玄関から匍匐して進んだ。既にして
輦(訓よみで→ てぐるま) に乗ることを許された。後には蘭軒の
轎(か ご) が玄関に到ると、侍数人が轎の前に集り、円い座布団の上に
コザ(胡 坐) してゐる蘭軒を、布団籠に手舁(てがき)にして君前に進み、そこに安置した。此の如くにして蘭軒は或は侯の病を診し、或は侯のために書を講じた。蘭軒は平生より
コン( 褌 ) を著くることを嫌つた。そして久しく侯の前にあつて、時に衣の
鬆開(そうかい) したのを暁らずにゐた。侯は特に一種の
ヘイシツ(蔽 膝) を裁せしめて与へたさうである。座布団と蔽膝との事は曾能子(そのこ)刀自の語る所に従つて記す。・・・(注)「ショウリの任」:調和させて治める意から宰相の任、職。原文では「ショウ」の字は対象外。本問の字でも同じ意味。 コウシュウ:文章や字句を比較照合して、誤りをただすこと。ヘキジュ:足の不自由な儒者。鬆開:着物が乱れてはだけること。ヘイシツ:ひざかけ。
(その八十)
・・・茶山は此書を作るに当つて、蘭軒の親族のために一々言ふ所があつた。先づ榛軒がためには、父蘭軒に子を教ふる法を説いてゐる。「たんと御叱被成まじく候。あまりはやく成就いたさぬ様に御したて可被成候。」至言である。・・・ 飯田氏益に対しては、茶山は謝辞を反復して
コンカン(悃 款) を尽してゐる。江戸を発する前に、まのあたり告別することを得なかつたと見える。側室さよに対しては、・・・(略)・・・以上は茶山が蘭軒の
カケン(家 眷) 宗族のために言つたのである。次に・・・。(注)コンカン:まごころがこもっていること。懇切。
(その八十九)
・・・わたくしは此年文化十三年に池田錦橋の歿したことを書く次に、曾て池田氏の事蹟を探討した経過を語つた。既に先祖書を得た今、わたくしは未だこれを得なかつた昔に比ぶれば、暗中に
一穂(いっすい) の火を点し得た心地がしてゐる。しかし
許多(あまた) の疑問はなか/\解決するに至らない。前に挙げた京水出自の事の如きは其一である。 錦橋は此年に歿した。しかしその歿した時の年齢が不明である。わたくしは渋江抽斎の伝に於て、霧渓所撰の錦橋行状に年齢の齟齬を見ることを言つた。そして生年より順算して推定を下さうとした。今先祖書を得た上はこれを
フクカク(覆 覈) して見なくてはならない。 行状を見るに、・・・要するに安永中より寛政の初に至る間三歳を減じ、寛政の末より一歳を加へ、遂に歿年に一歳を加ふるに至つたのである。そこでわたくしは
カンシ(幹 枝) と年歯との符合するものを重視し、生年に本づいて順算することゝした。即ち歿年は八十三にあらずして八十二となるのである。
然らば直温所撰の過去帖は奈何。過去帖は錦橋の父母妻子の
齢(よわい) を
具(つぶさ) に載せながら、独り錦橋の齢を載せない。直温は夙く旧記の矛盾に心付いたので、疑はしきを闕いで置いたのではなからうか。
(注)フクカク:審査。繰り返しくわしく調べること。カンシ:干支(えと・カンシ)のこと。ここでは「干支」以外の熟語を用いている。
<コメント>「フクカク」は(注)があっても高難度か。「カンシ」はヒラメキ・勘で解くしかないか・・・広辞苑にも載ってましたが。あとは過去問で出た熟語もあるし、(注)でなんとかなるものもあると思うので、難度は中くらいでしょうか。誤答は2問以内に押さえたいところ・・・。
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