治承四年(1180)十月廿日。舞台は富士沼(吉原と沼津の中間位)。まさに写真にある平家越という場所ですが、このあたりで源氏と平氏の初戦である富士川の合戦が行われました。合戦と言っても壮絶な戦いが行われたわけではなく、水鳥の羽音を敵方の軍勢と勘違いした平家側の大将である平維盛が早々に撤退したという事件です。どうしてこんなことになったのか?この合戦前の状況を『平家物語』から抜粋して、実況してみましょう。
大将軍権亮少将維盛、東国の案内者とて、長井の斎藤別当実盛(『吾妻鑑』ではこの戦に不参加)を召し、「汝程の強弓精兵、八か国に如何程あるぞ」と問い給えば、斎藤実盛あざ笑って、「君は実盛を大箭と思召しめされたが、私はわずか十三束(矢の長さの単位で一束は一拳)、実盛ほどの射手は八か国に幾らでもいる。大箭と申すものは十五束に劣って引くものにあらず。弓の強さも、強者が五六人で張るものだ。このような精兵が射れば、鎧の二三領は容易に射通す。(一部略)軍は又親も討たれよ、子も討たれよ、死ぬれば乗り越え乗り越え戦ふ。西国の軍はそうではない。親討たぬれば引退き、仏事孝養し、忌みあけて寄せ、子討たぬれば、その愁え歎きとて、寄せることない。兵糧米尽きれば、春は田作り、秋刈り収めて寄せ、夏は暑しと厭い、冬は寒しと嫌ふ。その上甲斐信濃の源氏等、案内は知ったり、富士の裾より、搦め手にや廻り攻めてくる。かように申せば、大将軍の御心を臆させてしまった。
『平家物語』は誇張があるにしても、大将軍維盛は、地の利のない東国まで来て、見たこともない強者のいる源氏勢の話を聞いて、戦う前に臆したというのが実態でしょうか。それでも西国の武士と東国の武士の比較が興味深いですね。20年位前までは平家も源氏も北面の武士として一緒に戦っていたのに、子・孫の代になるとすっかり忘れてしまったということでしょうか。
この話、何かいつの時代にも通じるものがあります。備えあれば憂いなしでした。マスク一枚に右往左往する我が身が恥ずかしい。布でも不織布製でも、お医者さんに必要なウイルスカットマスクでなければ、人に迷惑をかけないという効果が同じならばありがたい。さらに洗って再利用できればもっといいのですが。