人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る --北条泰時の事業:北条御堂--

2021-02-10 13:19:10 | 日記

『吾妻鏡』寛喜二年(1230)十月の条に「武州(北条泰時)御願の北条御堂上棟す」という記事があります。堂の名前があれば場所を調べることが出来るのですが、たった一行だけでその他の説明は一切ありません。この時期、泰時の政治は評定衆による合議で行われていましたので、新しくお寺を建てる時には建設地を慎重に決めていました。その評議も行われていませんので、その場所は北条氏が所有する敷地の中でしょう。そうすると何処か?当時の御所は宇都宮辻子近くにあり、泰時の執権邸は今の宝戒寺から葛西谷あたりにあったと思われます。としたらその場所は今の東勝寺跡と考えられます。実際、写真にある東勝寺跡の説明には北条泰時がかかわったと書いてあります。

さらに『新編鎌倉志』には、葛西谷、宝戒寺の境内、川を越えた東南の谷。青龍山東勝寺の旧跡あり。東勝寺は関東十刹の内。開山西勇和尚、退耕行勇の法嗣也という。今は寺亡たりとあり、『太平記』の記事も引用してます。『鎌倉廃寺事典』の東勝寺では、開基北条泰時、開山退耕行勇とあり。行勇はこの寺で仁治二年(1241)に示寂したとしています。ではベストセラー書『太平記』はどうか。その「鎌倉中合戦の事」の個所には、鎌倉殿の御屋形も焼けて、入道殿(北条高塒)は東勝寺へ落ちさせ給ひぬ云々と、近くにあった東勝寺の名前がはっきり出てきます。やはり泰時御願の北条御堂はその当時から東勝寺という名前だったのでしょうか?

しかし上横手雅敬著の『北条泰時』によれば、嘉禎三年(1237)十二月、泰時が妻の母の供養のために建てた御堂を東勝寺としています。『吾妻鏡』によればその時の導師は退耕行勇です。ここでまた東勝寺の名前がでてきましので混乱したわけです。別の東勝寺なのか?

なんだかミルクボーイの漫才みたいになってしまいましたが、またまた妄想がふくらみました。泰時は頼朝の持仏堂みたいな堂を執権屋敷のそばに建て、万が一の場合の逃げ場所にしたかったのではないでしょうか。実際、和田合戦の時には持仏堂に実朝は退避しています。それが北条御堂。前面の滑川を堀にした堅固な城塞だった可能性はあります。そして東勝寺の名前は泰時が死んでから、さらに下って鎌倉幕府が滅亡してから再建された寺の名前かもしれません。

 

 

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