前回同様に講談社学術文庫『明惠上人伝記』(平泉洸 全訳注)から明恵上人の承久の乱時のエピソードについて紹介します。明恵上人は高山寺に逃げ込んだ朝廷方の敗残兵の引き渡しを拒みました。その時の明恵上人の態度について訳者がまとめた文章がありましたので、そのまま載せます。
「自分は求道者であり仏弟子であって、俗世間のことに一切関係せず、紛乱に当って、一方の味方となり、他方の敵となることは、断じてない。次に栂尾の高山寺境内は殺生を許さない聖地として仏に捧げられた土地であるから、境内においては鳥獣を捕え、また殺すことは許されない。まして人間を捕縛し、殺傷することの許される道理はない。つまりここは警察権も介入を許されないアジール(聖地)の地であるから、自分がこの寺を管理しているかぎり、脅迫せられて逃げ込んで来る者は、必ずこれを収容し庇護するであろう。それは仏弟子としての自分の神聖なる責任である」
非常に明解に明恵上人の態度を要約した文章です。明恵上人は、もし私の行為が幕府の方針に不都合であれば、私の首を斬るがよいとまで言っています。北条泰時はこの明恵上人の態度に感銘し、明恵上人を許しました。泰時もまた人物でした。
さて前に藤原不比等が『古事記』を創作した目的は神仏習合であると書きました。神様は伊勢神宮に祀り、仏は東大寺に廬毘舎那仏(大仏)を造りました。大仏は偶像であり後世も引き続き拝めますが、存在を見ることが出来ない神様をどう後世に伝えようとしたのか?そこで「式年遷宮」という方法を考えました。神様は確かに存在して生き続けているから20年ごとに建物など全てを造り変えるという方法です。国家の安寧には神と仏の両方が必要と思ったのでしょう。
また聖徳太子の十七条憲法は仏を敬えとしか出てきませんが、北条泰時が作った御成敗式目では第一条に神社のこと、第二条に寺のことが出てきます。以後、武家が支配する世でこの神仏を大切にするという考え方は江戸時代まで続きます。明治時代には廃仏希釈により国家神道という考え方に変わりますが、それは仏教的な大慈大悲の思想では列強と戦っていけなかったからでしょう。さらに戦後は大半の国民にとって神仏は畏怖する対象でなく形式的に参拝する場所に変わりました。それが良いかどうかはこれから答えが出てくるかと思います。
写真は今朝写した富士山と桜の一枚。昨日の大雨から一転して爽快な朝でした。