常立寺は藤沢市片瀬にある日蓮宗のお寺です。藤沢市の寺院をなぜ紹介するのか?疑問に思われるかと思います。まずこのお寺は龍口寺の輪番七ケ寺の一つであること。ご存じの通り、龍口寺は龍ノ口の法難があった場所に建てられたお寺で日蓮宗にとっては聖地になっています。そして文永の役の翌年(1275年)に元国より元への服従を求める杜世忠らの使者が鎌倉にやってきました。しかし当時の執権であった北条時宗は国に返さず全員を処刑してしまいました。そして龍ノ口の処刑場近くに埋葬し、その埋葬地には「面影塚」と言われる供養塔が建てられたようです。それが今の常立寺がある所です。江戸時代の『新編相模国風土記稿』にその記述はなく、大正15年になって当時の住職によって今の「元使塚」が建てられました。戦後になってからは大相撲藤沢場所があるときにモンゴルの力士らがこの元使塚を参拝しています。鎌倉とは縁のあるお寺です。
さてここからが妄想の世界。ではなぜにはるばる元から来た使者を一人残らず殺害したのか?現代人から見れば北条時宗の非情さに憤慨し、参拝するモンゴルの人に同情するでしょう。この文永の役のあと弘安四年(1281)7月に再び元と高麗は大軍を率い日本を襲撃しました。いわゆる弘安の役です。一説では、文永の役は本格的に日本に攻め込むための偵察戦であり、杜世忠らの使者は日本の地理や地形、人々の暮らしを調べるために来たとも言われています。元の大船が関門海峡から瀬戸内海、難波から淀川を上り京都まで来るのは容易いことです。そうなれば、あっという間に日本は元に支配されてしまったでしょう。当時の鎌倉幕府は元の恐ろしさを知っていました。恐らく元寇前の弘安二年に来日した無学祖元などから聞いていたと思われます。また当時の鎌倉幕府の指導者たちは神仏を崇敬していましたので、余程の事がない限り隣国から来た使者などは殺害しません。何か彼らを生きて帰国させることができない事情があったのでしょう。
写真は常立寺の枝垂れ梅。満開の花を見に多くの人が訪れていました。つくづく平和の世に生まれて幸運でした。しかしコロナ後の世界はどうなるのか分かりません。いつまでも平和ボケのまま安穏に暮らせるとは思えません。たった70年前には飢えに苦しんだ人が大勢いました。そうならないように緊張感をもって生きたいものです。