『かまくら子ども風土記』の台と小袋谷の項に成福寺の隣に厳島神社が紹介されています。もともと成福寺境内の一部で、応神天皇を祭神として八幡さまがまつられ、寺の鬼門よけのお宮でした。昭和になって弟橘媛命をまつる吾妻社、市杵島姫命をまつる弁天社を一緒におまつりして今の厳島神社となったとあります。この厳島神社がある成福寺の裏手の山は、成福寺の山号になっている亀甲山と言います。山の形が亀の甲羅の形をしているからだとも言われているそうです。
最近の北条泰時に興味があり調べていますが、今日も泰時のお墓のある常楽寺を訪ねてから成福寺とこの厳島神社を訪ねました。成福寺横の階段を登れば気持ちのよい広場があり、そこに厳島神社が建っていました。東を望めば常楽寺の裏の台地が見え、今はマンションが邪魔をしてよく見えませんが、昔は北鎌倉から大船、常楽寺までが一望できた場所だったと想像されます。そしてこの厳島神社の名前ですが、昭和につけられたとは言え、平清盛が整備した安芸の宮島にある厳島神社の名前をつけたとは、平氏ゆかりの神社であること意識したとしか思えません。この成福寺・厳島神社、常楽寺はいずれも鎌倉街道沿いにありますが、北条泰時が生きていた時代から北条氏の所領だった山内荘の台地の上に砦みたいな建物があったのではないでしょうか?そうするとこの成福寺もその時代から堂宇が整備されていたかもしれません。
これは妄想ですが、『吾妻鏡』にでてくる泰時が妻の母のために造った墓所は今の常楽寺ではなく、この成福寺ではなかったかと・・・。成福寺は泰時の子である成仏(幼名 泰次)が開いたとされています。