吉川英治著の『新・平家物語』の書き出し「ちげぐさの巻」は青年平清盛が場末のクサ市で遠藤盛藤とばったり出会うところから始ります。長編小説の巻頭部分は読者の興味を引き付けるために最も作者が力を入れるところであり、私もずいぶん前にこの『新・平家物語』を読んだのですが、不思議にこの遠藤盛藤と源ノ渡、佐藤義清の名前が記憶に残っています。平清盛とこの3人は勧学院の同窓で、清盛からすると、源ノ渡は五年上級で、佐藤義清も二つ上。遠藤盛藤は一つ上という間柄です。この三人の名前を聞いてワクワクしたのは、まず佐藤義清、この人は後に出家して西行となります。あの芭蕉も愛した歌人ですね。遠藤盛藤は源ノ渡の妻である袈裟御前を殺害し、行方をくらまし出家するという人物です。読んだ当時は袈裟御前の物語で日本中が盛り上がったことなど知る由もありませんので、あまり関心もなく先に読み急いだものでした。
そして遠藤盛藤がこれからこのブログでその人物像にせまろうとしている文覚上人、その人です。先月から大河ドラマ「鎌倉殿と13人」が始まり、つい最近、源頼朝に平家討伐を勧める市川猿之助演じる文覚上人が登場しましたが、どうにも胡散臭い風体でしたので、どんな人物かあまり関心なく通り過ぎた方も多いかと思います。しかし吉川英治は巻頭の大事な部分に清盛、遠藤盛藤、源ノ渡、佐藤義清の四青年を登場させました。古典『平家物語』にも出て来る名前で900年近く前の記録?記憶?に残された人物であることは、晩年にも活躍した人物であった可能性があると推測されます。この四人のうち、誰でも知っているのは清盛と西行。西行は『山家集』などで歌人としての実績があります。そして遠藤盛藤こと文覚上人は『平家物語』『源平盛衰記』『吾妻鏡』『愚管抄』や神護寺にある記録などに一部記録が残されていますが、実際どうだったかはよく分かっていません。さらに源ノ渡は、東大寺の再建に尽くした重源ではないかという説もあるようですが、出家した後の消息は全く不明です。
鎌倉市やその近郊には、写真の文覚上人屋敷跡の石碑、補陀洛寺、成就院、証菩提寺など、文覚上人ゆかりの事跡はありますが、実際はどうかは伝説の域をでません。このブログでは資料から得られる記録を繋ぎ合わせ文覚上人の実態に迫る妄想を膨らませたいと考えています。