2022/2/22で2が六つ並ぶという夫婦にとっては大変愛でたい日の朝にJR湯河原駅に降り立ち、駅前にある土肥実平夫妻の像の前に立つことができました。ご存じの通り、土肥実平は治承四年八月の石橋山合戦後の源頼朝の逃避行に力を貸した重要な人物です。
今日はその土肥実平が治めた湯河原の地を訪ね、JR湯河原駅から菩提寺である城願寺、さらに土肥城趾(城山 標高563m)、しとどの窟、梅林で有名な幕山公園まで歩く計画です。それは源頼朝主従が山木の館を襲った八月十七日から石橋山合戦での大敗を経て、二十六日に真鶴の岩浦から船出するまで、どんな思いで過ごしたか?敵の探索から逃れ、生き延びた数日間は運だけが頼りだったのか?しとど窟は偶然に見つけた岸窟だったのか?・・等々。自分の足で歩いて実感する旅でもあります。
写真は土肥実平夫妻の銅像です。銅像の前に由来がありましたのでそのまま書き写しました。
土肥実平公は中世日本史上に活躍した郷土の武将である。治承四年(1180年)源頼朝公伊豆興るや、いち早くこれを援け、石橋山合戦には、土肥杉山にその危急を救い、鎌倉幕府草創に当っては、軍監、追捕使、宿老として多くの功績を残した。公はまた領民を慰撫しその敬慕を受けたことは、全国諸所に残る墳墓伝説がこれを物語っている。公の夫人は民や農民に姿を変えて敵を欺き、杉山に潜む頼朝主従に食料を運び消息を伝えるなど、その心さかさかしき(源平盛衰記)は武人の妻の鏡として後世にまでたたえられている。ここに源頼朝旗揚げより八百年を迎え、土肥会創設五十周年を併せ、記念として公並びに夫人の遺徳を後人伝えんため、土肥実平公銅像建立実行委員会を結成し、町内外の有志の協賛を得て、その館趾、御庭平の地にこの銅像を建立したものである。
なんとも郷土愛にあふれた文章です。土肥実平夫妻が地元の民に慕われていたからこそ、隠れ場所が敵に知れることなく過ごせたかもしれません。また実平夫人は岩窟まで食料を届けたと伝わっていますが、女性の足で行ける場所なのか?実際に歩いて確かめたいと思います。