佐奈田霊社の脇の階段を20~30m下ったところの幾段か上った先に文三堂というお堂があります。この文三という人物は佐奈田与一義忠の家臣である文三家康ことです。主人の佐奈田与一は大庭景親の弟俣野五郎景久の一騎打ちで相手を組み伏せ、討ち取ろうとしましたが、鞘に血のりが付き刀が抜けず、壮絶な死を遂げました。それを見た文三は決死の覚悟で相手に打ち込み、七人ほど切り倒した後に討ち取られました。のちに源頼朝は伊豆山権現参詣の帰途、石橋山を訪ね、佐奈田与一と文三の墓を前にして落涙したと伝えられています。
石橋山の合戦は平家討伐の旗上げから間もなく始まりました。その合戦で討死した佐奈田与一と文三を弔うために与一塚と文三堂が建てられました。一家臣が討死しただけでこれほどまでに手厚く弔われるには、何か理由があるはずです。合戦のなかでの偶発的な討死であれば、歴史に名を残すことなく忘れさられてしまったでしょう。妄想を働かせば、この二人の討死はあらかじめ予定されたことだったと考えれば納得できる訳で、この石橋山の合戦は綿密に計画された戦いだったと思われます。これは考えすぎでしょうか・・・。